2011年5月31日火曜日

石巻の現在



どこの港にも船の修理をするドックがあるが、津波はやはりここも襲い甚大な被害をもたらしているようだ。向こう岸まで渡ることはできないが、こちらから覗く限りではガレキが散乱している。



こちらは住宅街で昔は海の一部だったところを埋め立てた作った造成地と聞いた。そのためか、簡単に地盤沈下が発生し、昨日の雨でまるで海か川の上に作った建物のように3階建てのコンクリートのアパートは孤立していた。



自分の家の庭先にまで流されたボートが横たわっていて自動車とのコントラストが面白い。これでも石巻周囲を全部把握することはまったく不可能で、やはり多くの人が現場を訪れ、その脅威を体感し、まだまだボランティアや重機のニーズがあることを理解して欲しいものだ。




港の桟橋に打ち上げられた大型マグロ漁船か? しかし数日後同じ場所を訪れたがすでにこの漁船は撤去され? 海にもどされたのだろうか? 姿を見ることはできなかった。
この石巻の港ではこれよりもっと大きなバラ積み船だろうか数千トンクラスの大型船も岸壁の乗せられていたのにもびっくりした。


液状化現象だろうか? 水が倒壊した家屋の周囲に見られ、今後の梅雨時どのような問題が発生するのだろうか、想像もつかない。 これらの水溜りは蚊の発生源になり、諸病気の仲立ちをする恐れがある。


20011年の5月末日だが、ご覧のようにガレキがまだ手付かずで、混乱しているのが石巻の住宅地だ。 石巻も何回も訪れているのだが、まだ知らない部分も沢山点在し、ボランティアの方々の暖かい手を待ち望んでいるようだ。


ここでも例外なく、お金持ち、大きな家を建てることのできた人の家だろう。 修復にお手伝いするとき複雑な気持ちになることがある。 水溜りは地盤沈下のためか水がたまりができ、昨日の雨でまた水面が広がったのではと危惧している。



1階は津波にぶち抜かれたようだが頑丈に設計されたようで2階はしっかり残っており、山や丘に近ずくほどこのような家屋が点在し、住人さえいてくださればボランティアが入れる余地はあるようだ。


最後は石巻港に打ち上げられたマグロ漁船か? 津波の力はとてつもなく大きくこれくらいの漁船では軽々と内陸部へと押し上げられていた。 昨日訪れたときにはすでに撤去され海上に戻されたようである。。

2011年5月30日月曜日

石巻の被災


石巻のこのような郊外から被災が見えはじめ、仙台空港あたりから畑と水田にガレキが流出しているのが目に入り、海水をかぶった竹やぶはごらんのように黄色くなって死んでいる。



住宅地に入るとこのような光景が目に飛び込んでくる。周囲はやられ、一棟だけが残ったり、悲惨な光景が目の前に現れる。『何で』このような被害にあったんだろう? 素朴な質問だ。


迷い込んだらなかなか抜けられない迷路のような被災地、これも石巻に入る以前から続く光景でここには2ヶ月以上経つ現在でも遅々として進まない被害の広さ、大きさを見せつけている。


海が近いせいだろうか、松が見える。 あの方向から進入した巨大津波は想像を絶する被害を石巻港周辺にもたらした。 手付かずのガレキノ山が散在する。 行く先は果たして車で抜け出せるか心配だ。



海を背景に、どこででも目立つ金持ちの住宅と周囲のガレキノ山は何だろう? カメラの入る荒れ果てた畑の中や、住宅地だっただろう風景がなくなってこんなシーンがどこにでも入ってくる。



住宅街が荒れ果て被害を受けているが、残ったものに大きな住宅が目立つ。これが今回の津波で際立った格差のように見える。ここではやはりお金持ちの住宅を助けることになるボランティア。貧乏な人には戻る家があるのだろうか?複雑な心境だ。


この家も傾いてはいるが大きな家だ。家の周囲にはまだこのように手付かずのガレキガ散乱している。 石巻の港側はガレキノ撤去もかなり進み、進捗状況が見える。 しかし左右に散在する住宅地は撤去も遅れている。


瓦礫を前傾に撮影してみたがやはり大きな住宅が目立っている。 このような住宅は家人が戻ってくるとボランティアが入ることになるだろう。

2011年5月28日土曜日

釜石の被害報告


これは釜石港近くの民家の状態で密集している民家は互いが助け合ったり壊しあったり、複雑な関係で現在が見て取れる。しかしガレキの多さ、整理されていない被災地でこれくらい進んでいないのは被害の多さ、広さが原因しているのではないだろうか?


学校前にうず高く集めれれたガレキは視界をさえぎり、処理の難しさをあらわしているようだ。 粉々になり、ヘドロと絡まり、塩竃ではヘドロを土嚢袋に入れる余裕があるが、ここの被災は甚大で、入れる余裕すらないようだ。気仙沼も同様だった。


この軽自動車が見せる津波の威力、強烈さはご覧の通りで想像することが難しくない。 この石巻では分別など言っていられる状態でなく、あまりにガレキが多すぎるのでその処理に悩んでいるだろう。どこに集めよう、どこで処理しよう。


ご覧のようにつぶれてしまった新しそうな車も、安いも高いも関係なく同様に一瞬で津波に押しつぶられたのが現在、現場に残されている。哀れな姿に変形してしまった軽自動車!。


浮力のついてしまった、大変新しい大きな家屋、しかしこれは土台のコンクリートから離れることなく、土台まで持ち上げてしまい、斜めになってしまった家屋だ。この家は素人目に上げるなり、下を掘って水平を出すことはできそうなきがする。


土台を少し持ち上げたおかげで助かったのだろうか?外観は健在のようだ。しかし周囲はほとんど壊滅状態です。家屋の前の電柱も見事中心付近から折れ曲がってしまった。


それでも自然は5月、若葉の香る、美しい季節! だがその前にはガレキの現実、凄いコントラストが心を痛める。 これを見て何も感じない日本人はいるだろうか。 私は今ボランティアをしながら、日本人が変わってきているなと実感しているのだ。 家に帰るすべてのボランティアがまた帰ってくると言い残してくれることも、そのひとつだし、心を開くと被災者の方々も心を開きお付き合いができ、双方ほう心底から『心の、ありがとう!』に感動して帰っている。


これは何だろうか、多分石巻港の近くの倉庫群に入ったときの画像だ。 トラックもガレキも変に一体化し、グチャグチャになってしまったのが周辺の工場、倉庫、事務所等だ。そして臭い! 30分もいるとおかしくなりそう。魚、ヘドロ、肥料、飼料等が散乱している。それに群がるカモメたち。異常だ! それでも復興のため働いている人たちがいる。 凄い日本だ!

2011年5月27日金曜日

20110527 今朝のボランティアグループ


今朝は少しボランティアの人員が減ったがまた午後から参加で少し増加。土日はどれくらい増えるだろうか? 今朝も浦戸諸島に渡る島の仕事がメインだ。午前のおそい時間の人は社協センターでおしごと。 お弁当を差し上げなかったの気がかりだ。 どうしよう?

20110527 再度寒風沢の調査



仙台司教区ボランティアセンターの要請を浦戸諸島のボランティアニーズを再度調査してみた。話を聞いてみるといろいろな問題が浮き彫りになった。 本土の災害があまりにも大きいために小さな島や湾の中の被災には手が届かなかったのが少しかたずき、今後は小さな島を手助け始めた。

まだ復旧があまり進行していないため、今回も9時出航の船が着く時間にまた自衛隊のヘリコプターが着陸した。 スペースの少ない島では船着場の小さなコンクリート上に着陸した。


自動車を持ち込めないボランティアのグループはすべて手仕事、手押しの一輪車が活躍するらしく土嚢やスコップ持参で作業スタート。 今日は何をするのだろう?


震災後できた島の桟橋は部分的に水没し移動するのがむずかしくなっていた。迂回して島の現場に移動、自分たちは2人で、島の住人にお会いして、どのようなニーズがあるのか、仕事があるのか発掘をしてみた。



島にはお店が現在は無く、じえいたいのヘリコプターが物資の輸送に活躍しているらしい。


 以前は島の産物『かき』の選別場であった建物が津波の被害を受けて、いまは使うことができない状態だ。 現在は仕事のための資材置き場になっていて復旧が望まれる。



仕事を頼んだ方の案内で自宅を拝見するために案内かたがた、島の様子のお話を聞くことができた。震災後、や共同作業その他の生活、いろいろ学ぶことがおおかった。


避難所、元所学校の校庭では遅ればせながらの仮設住宅が始まっていた。日曜日から搬入し、今日は土台となるくいが沢山うちこまれ、高さをあわせていよいよ建設が始まり6月中旬の完成を真座して始まった。


20110525日のボランティアの方々


毎朝恒例のお分かれと本日仕事の出発式?です。 皆さんのいらしたときから毎日ボランティアの方々は変化していますが、仕事はまだ継続して、もっとたくさんの人々を必要としています。


朝の仕事前の風景。 準備をして安全確認後出発して仕事に向かいます。慣れてくるとつい時間に少しルーズになり、リーダーに小言を受けることまあります。 ボランティア各自の安全管理が求められます。


元議員さんとカメラマンの方の1ショット。ジャーナリストは明日成田を出発されるそうです。かなりインターナショナルなボランティアの方が参加し、世界にこの震災を発信していただけるようです。


長崎から来られてシスターズリレーのシスター方のおかげで次の食生活を心配することなく、安心してボランティア活動に専念しています。 帰るときに太って帰る方もおれれるようで、逆に心配です。


若いボランティアの方々の参加はこのカリタスジャパン塩竃ベースに活気を与えて下さっています。
今後とも新しい若いボランティアの方々の参加は大歓迎です。

2011年5月25日水曜日

浦戸諸島のニーズ調査とその後の仕事

昨晩東京から戻り、今朝は塩竃の社協センターが仕事のニーズを探りに松島の浦戸諸島に入ることになり、カリタスジャパンがそれをサポートすることになった。 びっくりだが、仙台教区サポートセンターの了解もあり堂々と入ることになった。
小さな島が点在する中で寒風沢、野々島、桂島、そして朴島の4島で、塩竃港から船を乗り継いで担当地区に入った。そこで聞き取り調査をしニーズの掘り起こしを行った。
最初の人はガレキを燃やしていた女性でほぼ出来上がったので今はいらない。 次の男性は盆栽と木の根の収集と置物に変換することが趣味で面白い置物を作っておられた。 ここも大きなうちだがほぼ出来上がってここでも断られたが、何かお手伝いの出来そうなお宅で後一押しだろう。後一声押して欲しい。 ガレキの撤去を頼まれた。 まだ探して粘ると仕事はできそうだと感じた。


この写真はプロの潜水士でNTTDocomoの雇われ人で、熊本から来て働いているそうだ。現在水中は視界が悪く仕事は難しいらしい。海底ケーブルがずたずたになりそれを引き上げその後新設するのが仕事のようで、プロの集団だ。


かもめの群舞の中えさを求めてとんびもえさを探し始めた。チャンスがあれば餌をやりたいとかもめの中で飛び始めたトンビにも餌を投げた。 帰りはパンやチップスのくずを手の上におくとうまく取っていた。最後は軍手をつけ手の上に乗せるとかもめは手の上からうまく取っていった。



野の島に行くボランティアや撮影クルーや自分たちのグループのカリタスジャパン塩竃ベースの人々が20名ほど参加した。 4つの島に降り、声をかけてニーズを掘り起こす努力をした。


野々島に着いたボランティアを含めその他の乗り換えは少し小さな観光船に乗り次の目的地に向かった。このあたりの島々の状況は地震の影響は小さな島々の岸壁に見られたり、寒風沢では古い建築に大谷石のような石材が使われているので、地震の揺れで倒壊したのが目立っていた。



浦戸諸島に入り社協ボランティアセンターの職員の方々と打ち合わせニーズの発掘に動き出す前のカリタスジャパンのメンバーたちです。 太平洋側は壊滅的で内側は松島の諸島に守られ被害が少なかったようです。



自衛隊の部隊が入り本格的に動き出した災害復旧だが大きな町と比べると2ヶ月遅れで、ニーズを見つけるのは容易ではない。『もう少し早く来てくれたら』と多くの住民の方々に言われて肩身がせまい。


これは浦戸諸島に入る前に潜水夫に聞いたところ海底の電話線に引き上げと次の敷設のため潜水をしていると聞いた会社(NTT)関係の船だと分かった。塩竃港で仕事をしているた人たちであった。プロの集団だった。

2011年5月22日日曜日

大船渡港周辺の現状




この衛星写真は大船渡港で左に川があり津波の遡上に好都合である。高さ10mほどで後ろから数百キロの幅で一気に湾の奥に向かって押し寄せるので最終の到達点は奥深く川を氾濫させ、道路から左右に広がり被害を広げたのが今回の東日本大震災だ。

コンクリートも津波でご覧のように粉々となり変形してしまった。凄い力だとただ感心するだけで、所詮人間は自然の力には逆らえないと多くの人が感じたのではないだろうか?


被災後3週間はこれくらいの排出物があり、1ヶ月後にはもっとガレキの量が少なくなってきている。
小さな力でも毎日70日も経過すると目に見えて結果が出ているなと感心する。


うず高く積みあがった瓦礫の山も種分けられ、日を追って毎日それらの変化が顕著に現れ始めた。
大きな被災現場ではやはり重機が活躍して現場から集積場へと移動を毎日繰り返している


被災した自動車たちもこのように整理して保管されて持ち主の現れるのを待っているのが自動車集積場である。このような自動車の大量損失で東北地方で中古自動車を見つけるのが困難といわれている。


怠け者の鵜やかもめが多く、こぼれた魚、廃棄された魚を探しながら生活している。 そこらに冷凍庫から出た魚がこぼれているので、漁をしないで食物が手に入るために、丘の上にたむろしていた。