2013年2月27日水曜日

大分県の中津でサクランボの花が咲き始めた


このスケッチは陸前高田の気仙川の河口にある水門で、岩手県の水門はほとんどがこのような形状をしています。 大槌町でも同じような水門がありました。
この陸前高田ではこのすぐそばに希望の一本松が残ったのですが、津波前には7万本の松原があったそうです。 津波が異常な威力があったために水門近くの公園の手すりがご覧のようにことごとく曲がっていました。


きゅは20130227日で大分県の中津、自分のいるところの庭ではサクランボの成る桜の木に花が開き、暖かくなる午後からあすにかけてかなり多くの花が開き始めるだろう。


サクランボの実る桜だからあまり枝や幹が大きく太くならず小さなままで花が咲きその後実をつけるようだ。 小鳥との実の取り合いがあるらしく、ネットをかけて実を守る必要があるかもしれない。


昨晩まで降った雨が上がり一気に暖かくなり始めたせいか、一作かと膨らんだつぼみを見ながら生活していたのだが、今朝最初の花を見つけ、今後はどんどん花を開いていきそうだ。


最はじめの桜の蕾で、午後にはもっと開いた花が増えそうだ。


これはグミで蕾がそろそろ膨らみ始めこれも近々花をつけ始めそうだ。 周囲にはその他柑橘類、カリン、その他の樹木があるのだが・・・・・


すでに花を開き始めた梅の花で、今は二、三分咲きで白梅だ、しかしつぼみは赤く花が開いて始めて白梅とわかった。 これも今年の冬に剪定したので、今年は大きな梅が実るかなと期待をしている。


日の出までは雲が多かったのだが日の出後に青空が広がり始め、結構暖かい状態をなり始めた。あと一度寒い日があると予報が言っているらしいが、霜が来ることもあるので、あまり安心は出来ない。


隣のサクランボの実樹も花を開きいよいよ春を迎え始めた大分県の中津だ。 明日で二月も終わる今年の閏年。 オリンピックのある年が閏年だそうだ。昨日まで知らなかった。 学ばせてもらった。

2013年2月25日月曜日

陸前高田の一本松と1ヶ月後の気仙沼周辺


このスケッチは陸前高田の防潮ゲートのすぐ近くにある海岸のホテルだ、この建物は左側が折れ曲がり大きく左に落ち込んでいる、地盤沈下の典型で、白い建物は津波の来る以前は風光明媚な海のすぐ近くにあるホテルが謳い文句だっただろう。
手前に一本の松が残ったのは陸前高田で有名な7万本の松原でわずか一本だけ津波に耐え生き残った松だ。4月頃はまだ少し青い葉が残っていたのだが、多分この松の根元近くが深くえぐられ、海水が長いあいだ浸水されていたたまだろう。 枯れはじめ夏頃は危ないな、多分、かれてしまうだろうと推測していた。 これを描いた10月にはすでに枯れてそれでも『希望の松』として残そうの運動が起こり掘り起こして保存するための処置を始めていた。


これらの写真は多分気仙沼地区の被災状況の写真だ。 この鉄骨だけの建物は何だろう? ガソリンスタンドかな 空き地が広いため、破壊されたガレキがいたるところに散在していた。


これはどこだろう? 自分の記憶では気仙沼の鹿折地区かな?大きな建物でこれは多分3階建ての住宅か民宿のような家かもしれない実に大きいいお城のような風貌だ。2階までな津波が浸ったようだ。


これは気仙沼の前の地区かな? ガレキが集積し後ろの錆びた鉄塔はコンクリート関係の企業かな?乗用車もがれき同然放置されていた。


この黄色い車は何だろう、目立つ黄色の塗装は国道交通省の名前が入っていた特殊車両が被災地に入っていた。


これは先ほどあったガソリンスタンドのクローズアップでガレキが山のようにうず高く流れ込んでいた。オーナーは始めてこのシーンを見たときどんな心境だっただろう?


どこから何が流れ着いただろう。すごい状態です。 これらを撤去するだけで1年ほどかかったが、日本人の忍耐力にはいつも感心しています。


右下が国道だろう、その向こうは全て破壊尽くされた住宅街だろうか、ガレキしか見えない被災地の一角だが・・・・・


この写真は多分ローソンの店舗だろうが完全に破壊し尽くされ屋根まで津波にに覆われただろう。


何もない畑だろうか、雑草まで洗い流されたようでその上に漁船が港から流れ着いたようで、取り残されたのが印象的だった。


これは気仙沼線だろうか線路の被災もひどく海の近くは線路の流出やら盛土がなくなったり、がれきの覆われたり現在もこの気仙沼線は使うことが出来ないし、復興さえ前が見えない鉄道だ。


この写真は多分石の見える面が下で上にコンクリート構造物が津波で横転させられたようだ。


被災地の中でひときわ目立つ鳥居が建っていた。周囲は全壊し何も残らない中で赤の鳥居がしっかりたっており誰も目に飛び込んでいただろう。


少し盛り上がった敷地の建物も1階が破壊され、土留のコンクリートを乗り越えた津波が勢いよく建物に入り込んだようで完全に外壁、サッシ等が壊れていた。


日本郵政の気仙沼地区大谷集配センターも津波が押し寄せ乗用車を手すりに立てかけて引いて行ったようで、車の後ろが左側に残されています。


多くに見えるのが海でそこからおしあがった横の広い津波がこの国道の高台に向かった押上この位置までガレキがあるのは津波が通過した証拠だ。 津波の通過したところは整地されたグラウンドのようだ。

2013年2月24日日曜日

陸前高田市民体育館と気仙沼の2011年4月



このスケッチは陸前高田市民体育館で、実にひどい惨状でした。こちらは裏側でこの開口部の反対側が、階段で津波はこの階段を駆け上がり1、2階の入口から入り込み内部を攪拌しで場所を見つけきらなかった津波は勢いに任せて反対側の壁を押し破り、一気にあらゆるものを排出した結果がこのような大きな開口部を後ろに作り壁を作っていたコンクリートが後ろに投げ出されています。
その後津波はひきはじめ周囲にあったガレキを海に引き込むために引いたのですが、大きな開口部ば空いていた体育館にその他のがれきを置き去りにしました。 体育館のフロアーに待ちしない乗用車が真ん中に取り残されていました。津波は天井まで達したらしく天井を落とし配線や配管を天井にぶら下げ近代ビルは同じような配線が津波の引いたあとに天井から垂れ下がっていました。


四月のはじめの気仙沼市港周辺の街並みは壊れるか、鹿折地区のように火災で焼け野原となった地区との比較が出来る。 ここ港周辺は津波の勢いが強く高台に津波がぶち当たるまで押して入ってきたので特に古い家屋は破壊を免れなかった。


鉄骨の家屋も骨がしっかりしていないと外壁を壊され、鉄骨を曲げられ、再生不可能な建物になってしまった。 このあたりの家屋はまだ多く残っているのだが重機でひとつずつ解体するため遅れがちだ。 復興の進み具合は気仙沼、釜石等が同じレベルだった。


前のバスは自分たちが静岡から運転してきたもので、かなりの距離を運転させられた。 曲がった前の家屋は階下が多分津波で流され、支えをなくしたのでこのような状態で1階に落とされたようだ。


ピンボケですみません。 軽く屋根まで浸かった土蔵風な建物は屋根瓦がひどい状態だ。 周囲は壊れて完全になくなった建物だろう。


だ課題か降りてくる途中で見つけた倒壊してがれきのたまり場となった場所と倒壊は免れたが、再生不能となった古い建物だ。

津波によって半分以上引きちぎられた建物。 立て方を見てみると大きさの割には柱がしっかりしていないために脆くも破壊されてしまった木造家屋。


物置だろうか? それとも住宅? 壁がかなり古い木材で作られているので簡単に壊れてしまったようだ。 ブロック塀も鉄筋がかなり手抜きをして入っていないと津波にはひとたまりもなく壊されてしまうようだ。


車の通行を可能にさせるため、道路のガレキはこのように空いているところ、家屋の前などにうず高く集められていたおかげで1ヶ月後はほとんど問題なく入ることができた。 これは感心した所だ。


電柱はご覧のように折れ曲がり用をはたあなくなってしまったので数多く見られた。電気は遮断されていたのでほとんど危険はなかった。 しかし岩場の反対側の市内はすでに電気は開通していた。


港からだろう流されて来た船舶だろう、街の中に逆転してがれきに覆われていた。


階下を壊された建物は奥のビルのあいだに転がっていた。 地元の方だろう、ヘドロの匂いがひどいのでマスクをして生活されていた。 昨年10月頃はヘドロに匂いはほとんで感じなかった。


流されて来た乗用車もご覧のように惨めに倒壊した家の中に追い込まれてしまったのだろうか? 普段では絶対に見ることができないシーンは数多くあった。

2013年2月22日金曜日

陸前高田高等学校の講堂兼体育館と気仙沼の四月


Google Chromeのせいか? ブログの投稿が難しくなり、UP Roadにこぎつけるのに苦労している。 大分県の中津市梅が咲き始めているのだが、朝には一面霜で真っ白になる寒さがまだ継続している。 そろそろ3月11日が近づく、季節だ。


このスケッチは陸前高田高等学校の講堂兼体育館のようで鉄筋コンクリートらし。 大型の建造物だが外観はそれほど被害は受けていないようだが、窓ガラスの破壊を見ると津波は3階まで浸水したのが伺える。 昨年10月に訪れた時にはすでに校舎に解体のための重機が入っていたのでそれからすでに4ヶ月になるので、このあたりは何もなくなったのでは推測出来る。 同時に陸前高田の大きな体育館の被害も凄まじく、ここも周囲に重機が入っていたので並行して取り残された公共施設が解体されただろうと、推測出来る。


ここは気仙沼の港に面した道路で桟橋に大型の漁船が津波によって打ち上げられていた。 その下に動くことが出来るタクシーが客待ちで待機していた。港に面した街の建造物はどれくらいまで津波が浸水したのかその後チェックしていないが、右側の建物の前には内部の家財道具が積まれている。


街の中の破壊は凄まじく、電柱でさえ鉄筋がむき出すくらい津波に押しつぶされたものが数多く確認できた。 このあたりは住宅や商店が沢山あっただろうが、破壊されたあらゆるガレキが内部に向かって津波に押し流され、そのパワーに破壊尽くされた気仙沼の市街地だ。


乗用車もご覧のようにベコベコにおしつぶされ、スクラップにされる運命だろう。 これらの破壊は周囲で潰されたものががれきとなって内陸に向かって津波に押し出され、被害を大きくしてしまった。


古自時代の蔵は鉄筋が入っていないにもかかわらず、津波に向かって立ち向かい、外部は少しむしり取られたようだが立ち残ったのにも驚かされた。 新築の日本建築哀れな脆さをいたるところで晒していた。 建築業界、建築会社んいを考えただろうか?


鉄骨構造で耐火壁それに、お饅頭の薄皮を貼ったような家屋、ひとたまりもなく外壁を壊れていたのが目に付く。 こんな建物を作った企業何かまなんだろうか?


古いと見られる家屋、最初の地震でも壊れただろうが、誰も予想だにしなかった巨大津波には立つすべが無かったようだ。 津波のパワーに改めて驚異を感じる。


破壊された市内の建物、コンクリートや鉄骨構造さえご覧の用にずれたり、曲がったりあまり見えないが被害を受けている。


土壁のあの土蔵、外壁が剥がされたくらいで、骨組みが残った強さ、日本建築何か学べるヒントがこれらにあるのでは? 新建築の耐火ボードに壁紙を貼った住宅今後は作らなければ良いのだが


左や奥の建築は鉄筋でコンクリート補強なため津波に強く、右隅の鉄骨建築は鉄骨が出るほど、外壁はほとんどダメージを受け、鉄骨も曲がって再生不能に陥っていたと感じる。


木造の家屋はご覧のように押しつぶされてしまった。 気仙沼市、今まで海の近くで反映したのが津波の直撃を受けてしまった。 岩手県は岩盤の県で地盤がしっかりし、海の周囲に山がせり出てきているので高台に安全な住宅地帯を確保すべきだろう。


初期の手金コンクリートか内部が木造かは定かではないが一階を潰して上が落下してしまった明治様式の建物と見た。(アールデコ建築かな?)


津波が押し込んだ2階のブラインドもご覧のようになってしまった。 誰も津波予測しませんでしたから。