2011年5月1日日曜日

5月5日に仙台、塩釜に移動します 塩竈からボランティアの報告をします

東日本大震災
世界がまだ経験したことのない地震の後の津波によって大災害を引き起こされた。
3週間後に被災地に入り、最初は仙台教区のカトリック支援センターに挨拶に行き、その後小松新譜様に案内され、仙台から1時間半の気仙沼に行った。仙台から被災地を突き抜け最初のショックは多分南三陸町だろう、もちろんそれに隣接する、小さな入江や湾、そしてそれらを舐め尽くした津波は国道45号線にまで達し、車窓から被災地を始めて見て、まだそれらの規模を推測することができなかった。それでも、ガレキの山は国道に沿って左右に積みあがり、最初の人々の仕事は国道や幹線道路のガレキの撤去から始まり、物資や支援がなるべく早く被災地の届くように日夜さいて突貫工事をしたのかも? しかし問題は電気が切れ、夜間は仕事をしたくてもそれができず、津波は家屋、車両、船舶、それに含め電柱まで大量に破壊していった。
仙台の上の沿岸ももちろんやられ、上にゆくほどその被害の大きさに、国道から、車のなかから推測するほかなかった。 多分午後5時ぐらいに、気仙沼につき、宿舎を支持され、あすに備えて。夕食は近くのコンビニで得た簡単な夕食ですごした。

次の朝は年寄りの習慣で早く起きたので市内をうろつき、簡単なコンパクトカメラを持参で写真を撮った。 ボランティアに来たので仕事が主で、大きなカメラは使えない。
宿舎は大きなマンションのホールでそこでシュラフを使って雑魚寝だ。
自分たちはバスの中で寝て、一晩を過ごした。 朝、最初の一歩はどうして気仙沼港、あるいは海に出られるか、歩いて見た。 地元の人らしい女性に聞いたら快く教えていただいた。 しかし彼女も被災者で、上の避難所まで教えて貰い、そこから港が見えるからと、聞いて一緒に高台まで上がった。 彼女は高台の小学校で寝泊りしているらしく、早かったので見せていだたくことはしなかった。


高台は気仙沼港の一部が見えるところで、3月11日のニュース映像もここから撮影されたと思うところで人々が踏みつけたあとが3週間後でも残っていた。 下の港に降りる道を見つけ降り始めた。最初の道は倒壊家屋が邪魔をして、そのとき新ためて被災の凄さを再確認した。


被災ご3週間たった気仙沼港の被災現場を見ると息を飲む。 早朝なのでまだ人ではまばらで、多くのところもあまり注意されることなく撮影することができた。

 ここは対岸の造船所でクレーは遠目にはあまり影響はでて居ないようだが、ドックに入っている漁船やその他の船が戦隊を傾けたり、引っくりかえっているのをみた


 ここは倉庫のようだが、マグロ漁船だろうか左に大きく傾き陸上に横たわっているのも正常でないことがわかる。 遠目にガレキが周囲にあり、津波の形跡が残されていた


陸の上に教会のような建物を見つけ、あれが気仙沼カトリック教会かなと早とちりをして、その後確認したらあれは気仙沼の結婚式場ときいてがっかりした。


気仙沼港でびっくりするのは係留されているマグロ漁船が真っ黒にこげ、当夜の火災の凄さを連想させるに十分で、乗組員がいたので、聞いて見るとこれは既に使えなくて、スクラップで売れるか、海に沈めて魚の漁礁になるだろうと話してくれた。


これは後ろ半分は正常かな?と思い前に行って見るとやはり炎が回ったらしく黒こげになっていた。このように火が回ったような漁船は見るだけで10艘はくだらないようだ。


これは珍しく大型の具ネガ陸に上がっていた。先ほど聞いいた漁船がこれは自分のところの会社の船で、『こいつは使える』だろう。日本で一番大きなサルベージが超大型のクレーンをもっているので
 そいつなら吊り下げて海に戻せるだろうと。 同時にディーゼル油がまだ4000リットルほど入っているのでこれが売れるだろうと。
左後ろの傷は以前見た気仙沼の津波の映像で大型線が、コンクリートの工場のベルトコンベアーにぶつかった時の傷のようだ。


当日は漁船のためのタンクがたくさん流れ、その多くのタンクが油を会場に流して行き、火災の原因を作った。この日も油の臭いと皮膜を港に確認することが出来た。






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