2012年7月31日火曜日

遠野の大工町の町並み


これは岩手県の遠野の町並みを紹介していますが3回目ですかね?
綺麗な街並みが目立つのが大工町で新しい街造りで成功しているところですかね。
下の地図では駅を背中にして前の道を左折した次の交差点が大工町ですぐにわかると思います。
赤いベルトの部分が大工町できれいな、魅力的な家屋が続きます。




上の地図の赤い線の部分が大工町で歩道は板張りだったと思います。 東北に来たらどうぞ遠野にもいらしてください。 車で幹線道路を走るとみることができません。 JRの釜石線で来られ遠野で降りるとよいと思います。


生活にゆとりがあるのかお金持ちが多いのか定かではないが、自分の家の周りの囲いはこんな無駄な作りをしています。 同時に日本の昔からの格子を使っているところが良いですね。


これは前にボランティアさんが泊まった時に見つけて旅館でその時初めて遠野にこんなきれいあ街があることを知ったのです。 以前何回か遠野は通過した時に少し見た記憶はありますが『何もない!』その時の最初の印象で、今回少し内部を見ることができて考えを改めました。


こんな丸窓も大工町に見つけました。 江戸時代のデザインを現代で生活の中に生かしているゆとりを見ることができました。


この土壁の色もいいですね。 垣根を植物で仕切るのもよいが 垣根にお金をかける生活のゆとりを感じさせてくれました。


このような風変りな建築も見ました3階建て、鉄骨造りだろうか? それでも遠野の大工町にしっかり溶け込んでいました。


日本の各地にある伝統的重要街並み保存地区にはあまりこのような建物はみません。 新しい街並みを作るプロジェクトがあってできたものだと感じます。 新しい街並みを壊さない、いかに融合させるか自治体と個人または企業が協力して作っているのが見えます。


柱の構造を白壁の中に見せるのが岩手県の特徴かな?この建物も少し古い建造物だが、街に溶け込ませるように改築したのだろうか?


これはプロテスタント系の幼稚園でした。幼稚園だから許される? 赤い屋根、それでもその町にできるだけ溶け込むように作っている感じが良い。 壁の色は協力してベージュを使っていた。


何の建物だろう? お酒や味噌を作るお店?それともその会社? 新しい建物のようだが、融合させるための努力が見える。


この板壁の個人の家も趣が良い 手入れの行き届いた庭の松の木が良い。 見えないが見たいと感じる庭の作り、家人だけが自分の庭を楽しんでいる。 後ろに蔵があり 昔は蔵の多い街だったようだと想像ができる のが 遠野

2012年7月30日月曜日

空の月と地上の建物のバランスが難しい写真


 昨日から月が気になっていた。午後9時ごろなのにかなり かなり海の方に移動しそろそろ地平線に落ちてしまうのかな? 同時に高さが低くなり大気圏の空気が影響して赤い月になりつつある。 満月でないので、あまり撮影したいとは思わなかった。
今日、現在7月30日午後7時15分だ。 雲があり月が輝き写してみたいと考えデジタルカメラを持ってきて撮影してみた。
欲張ると月も建物もと同時に説明するのでこれくらいの写真になってしまう。


普通に写すとこのような空もぬけ、建物の暗いところなくして平均した撮影になってしまう。 その中で肝心な月がほとんど写らなくなってしまった。 要するに空に負けてしまい地上部が真っ暗になってしまうか平均して真っ白になるのが現代のデジカメだ。夕方7時にしては明るすぎる。


少しコントロールできるデジカメだとこれぐらいには写すことができる。 少々暗くても、デジカメはかなり明るく写してくれる良さがある。


シャッタースピードをコントロールするか、絞りをコントロールすることでより夜らしく撮影することもできるしかしこれでは月ばかり強調されて建物が黒くつぶれてしまうのが問題だろう。夕方7時にしては暗すぎだ。


これは夕方にしてはいじりすぎで夜中を思わせる1枚になってしまった。 空の色も暗すぎだろう。
これも暗すぎかな?


これもブルーの夜空に月を強調すると建物も暗く沈んでしまう。建物と月と平均して出すのが難しい。 赤いライトと家庭生活の暖かさを表現するとき日没後の家のライトを入れると夕まずめが撮影できる。


夕方7時くらいはこれくらいの仕上がりが良いようだ。 月もハレーションを起こすことなく、建物も明るくなりすぎず、そこそこに見えるくらいの表情が良い。 何枚か撮影しながら適正な写真を撮影して探してみることだろう。 


空と雲と茜色の空が良い。 太陽が沈み空の色が美しく変化する時間帯が良い。 しかし建物と家庭の暖かさが小さくなることでおろそかになったようだ。


デジタルカメラでは簡単にこれくらいのものを撮影することができるのが現代のテクノロジーだろう。


これは上が少し明るいかな?と考え、時間と絞りをコントロールすることで暗くすることができ、月を青空の中で少しくっきりさせ、建物をも少し沈み込ませることで月をしっかり見せた写真だ。


これは隣の農家の温室のビニールに月明かりが反射し暗い地上部に月の反射を入れることで空の明るさと地上のバランスを温室でとってみた。


最後は教会の鐘楼に月を入れてみた。空の中の月と地上の鐘楼のコントラストが難しい。

2012年7月29日日曜日

久しぶりに浜松に帰る


これは主人のいなくなった浜松の畑だ。 今年自分が使えなくなったので浜松カトリック教会では地主さんに返すことになり、その手続きをし始めたようだ。 年間14,5万円の使用料はかなりの負担になるので放棄するらしい。 それで自分が使っていた耕運機を前の人に使ってもらうことにしたらしい。 今朝その方に会ったら恐縮されていた。 理由は3万円で買ったものを1万円で譲ってもらったということらしい。 しかし自分はただでお譲りするつもりだったので1万円もらったので迷惑をかけたと感じた。
話は変わるが、面倒を見なくなった畑は早いもので雑草に覆われていてひどいものだ。 左側は雑草をブラジルの信者さん方が抜いてくれているようで雑草はなかった。
雑草をはやすことは周囲の農家に迷惑のかかることで、雑草の種が飛ぶ前に除去するのがしきたりだ。



反対側は雑草が覆い茂り草を取り除くのは結構大変だ。 理由は粘土質で現在雨があまり降っていないので土地が大変かたくなっているためだ。


背の高くなった雑草と細いが細い雑草が下に茂っており、かなり体力を要する仕事に見えた。
昨年経験した被災地仙台ではこんな雑草ではなかった。 津波のかぶった雑草は巨大に成長した。


最初はこの場所に白菜やキャベツを造り、その後はd大根やタアサイなどの葉物を作った。
再度またこの土地を借りることになるかもしれない。 使用料を半額にして使ってほしいと頼みに来たのが土地のオーナーだ。


以前散水に使っていたホースがまだそのままになっている。 処分するには考え物で、再度使うとなると必要なもので雑草の中に放置されていた。


驚いたことにその雑草の中に元気よく昨年のネギが成長している。 どうしよう? 岩手県の持って行き移植してみようと考えている。 うまくゆくかもしれない。


厚くなければ自分が出て雑草を除去するのも可能だが、 浜松は暑い。昨日40度になっていた。
低くても38度くらいが芝のうえの温度だ。


驚いたのは6月の台風はいろいろ葉のあるものを痛めつけたようだ。 司牧センターの樹木が枯れたり傷んでるのを見てびっくりだ。 理由は隣の農家に聞くと台風の潮風が強くそれで樹木や野菜が大きな被害を受けたようだ。 自分は温度の聖だと思っていたのだが。

暑い中で少し自分の体力の回復に努めています。

2012年7月27日金曜日

遠野市 大工町



城下町としての遠野 [編集]

徳川家康に臣従し、盛岡藩を成立させた南部利直は領内の基盤整備に取り掛かった。
それまで遠野を領有していた阿曽沼氏や鱒沢氏を追放し、根城南部氏の八戸直義を転封させて仙台藩領と隣接する遠野の統治にあたらせた。
1627年(寛永4年)、直義は遠野鍋倉城主として12,500石を与えられた。以後明治維新までの約240年間の間、
遠野は遠野南部氏の城下町として存続していくこととなる。歴代当主は盛岡藩御三家の一つとして盛岡に常駐していたため、
実際の政務は鍋倉城代である重鎮の家老達により行われていた。現在も穀町、大工町、材木町、六日町という地名に城下町の名残を見ることができる。(ウィキペディア)

ここが遠野では町並みが統一され、国が定めた重要伝統的建造物指定ではないのに驚いた。綺麗に統一された町並みで、歴史が無いのが指定ではずれているのかもしれない。 そういえば長野県の小布施町がそのようだ



規制された街造りは日本では珍しい。自由気ままに建築されているのが日本の問題で街並みを壊しているのが自由だと感じている。 たぶん前にも書いたのが壁の色がベジュで統一されているようだ。あるいはこれに近い色のために落ち着いた街並みが出来上がっている


この家はベージュではないが木材の色が出ているので、許可が出たのかもしれない。 長野の小布施町に似ていると感じた。


ベージュと木材の肌色がメインで、秋田県の角館が木材の色を使い、塗装は黒に近い低明度の色が使われ、江戸時代の武家屋敷がメインで残っている。 ここ遠野は新しい家を作るときに条件があるようだ。


ここ大工町はこのように落ち着いた雰囲気が感じられる。土壁が効いているのかもしれない。 土壁と言えば京都の美山もべんがらと茶色が主流の茅葺も集落でここも重要伝統的建造物指定を受けていた。


上の家屋のように格子がはめられた街並みが多く指定を受けている。 この街では格子はあまりないが、少し昔は下のガラスの前には格子が入っていたのかもしれない。


この一角は昔の城下町で大工町と呼ばれていたらしい、記念の碑が残されていた。1600年代の記述はあったがどう見ても1600年代の建物は残っていなかった。


雰囲気の良い家が立ち並び、今回津波でやられた沿岸地方の参考になる街並みだと思うがいかがだろう?


街並みとあまり関係ないが、東京で次のオリンピックを狙うらしく、メインスタジアムの構想が出ていた。数千億の予算で作り直すらしい。 建築家の安藤忠雄さんが仕切るらしい。 よいことだ。世界に向けてのコンペこれも賛成だ。 しかしあまりにも賞金が安すぎないか? よい建築家にやってもらいたければ1,2億位は出しても惜しくないのでは? 自分はサンチャゴ・カラトラバがやってほしい。条件も十分に当てはまる有能な建築家だ。 アテネオリンピックのメイン会場を手掛けている人だ。 ケチなコンペだこんなので世界の建築家が参加して食えるかな?

被災地の街造り、これもコンパクトな街造りをs世界の建築家に向かったアイディアを出すの呼びかけてほしい。 賞金も2,3億円くらい出せば応募してもらえると思うが。 このようなアイディアがまだ聞かれないのも残念な復興だ。 どうしてくれるのだろう?

2012年7月25日水曜日

7月20日 吉里吉里漁港で土嚢作りをする


これは珍しいボランティアの仕事で、前日に土嚢作りと言われ、土嚢なら安渡漁港と早合点し、その気でいたのが、この夜安渡漁港の漁師さんにお会いでき、明日土嚢作りを言われたけど、ありますか?と質問をしたら、私どもはあすカキの水揚げがあるので、土嚢は予定していないといわれ、びっくり、どこだろうと考えた。
翌日社協にゆくと、土嚢作りは吉里吉里漁港と言われ、指定のボランティアさんたちと時間に行ったら既に仕事が始まっていた。
漁師さん8名くらい、ボランティアは自分をいれて6名ほど。 どれくらい作るのか尋ねると1600個。かなりの数である。最初に安渡漁港でつくったのが850個ほどだったかな? その2倍かなりありますね。
仕事はフォークとショベルカー2台、プラスティックのパレット数枚、ホッパー1台、安渡漁港より古いもの。土嚢のつくり方、口の締め方少し違い、しかし合理的。 フォークの使い方はもっと合理的でした。1枚のパレットに土嚢を小砂利で満たしたものを8個いれるとフォークで移動しそれを縛るグループが口を閉じそれをまとめて8個で縛ってこれが1つで直ぐにフォークリフトで移動、その後フォークはホッパーのところから土嚢のパレット縛るところに移動してこれが連続の仕事でした。
合理的で早く、安渡漁港の同じ人数で倍の仕事ができたようでした。


これはショベルカーで小砂利をホッパーに入れるため。一すくいでホッパーはほぼ一杯となり、8個の土のう袋で半分位は終わっているようだ。従って小砂利をすくって入れるのも途切れることは無かった。


ホッパーの上から砂利をすくいショベルで上に貯め、下で袋に詰めるグループが待機し、流れ作業で仕事が順調に進んでいます。 安渡漁港では土嚢に入れた砂利袋を1つ一つ運んだのがまずかった、これは次回のために教えたほうが良い。


土嚢の口の縛り方も合理的で同じ結果だが多分倍早いと思う。 良いことは伝承で教えたほうが大槌のためになると考えている。 ボランティアのグループも最初は縛り方に戸惑ったがなれるもので最後は漁師さん並みに縛っていた。


8個を1グループとしてまとめるのは自分の役割で、安渡漁港でもやっていたので手際良くできたと思う。 実はこのフォークの漁師さん安渡漁港に船を係留し以前時々自分とお話をしたことがあると言っておられた。 それでカリタスジャパンのボランティアを知ったようだ。


漁師さん達はやはりなれており縛り方は自信があるのでしっかり結んでいて、時々自分たちのしたミスを修正して下さり、結果的にはしっかり絞った土嚢ができていた。


土のう袋一つ約50kg、以前安渡漁港で作っていたとき先端の固くない普通の長靴でこの袋を親指に落としたことがある実に重くショックでした。 こんな仕事は必ず安全靴を着用すべきだ。8個一緒だからおよそ400kgはあるだろう。フォークがないと仕事ははかどらない。


このグループも連携で一人が砂利を出し、適量になる様にコントロールし、一人が土のう袋を開き8個パレットの上に並べ落下しない様に置くのもむずかしいのだ。 手の空いた人はその間に口を縛ってくれ次の工程が少なくてすんだ。


右端の漁師さん土のう袋をしっかり結んでくれ、結び方を教えてくださった。 その後まずい出来の土のう袋を再度開いて絞り直してくれた人でした。


この漁師さんは大きな漁船の持ち主で、今回の仕事のまとめ役のような方で色々と話すことができたのが収穫で、吉里吉里漁港の漁師さんと仲良くなれたのも結果的に良かった。


最後に近づいた頃のショベルカーで救えなくなった小砂利をまとめてスコップでショベルに放り込んでいる風景で仕事が終わりに近づいた。


今回土嚢作りに参加した全員で合計12名のようだ。 そうして出来上がった土嚢は1600個と聞いている。しかしそれほど疲れることもなく仕事が完了した。

現在私は少し休みをとり明日東京に帰って報告をします。