2011年12月31日土曜日

新年明けましておめでとうございます。



新年明けましておめでとうございます。


昨年塩竃で皆様大変お世話になりました。 ボランティアありがとうございました。
私は現在岩手県の大槌町にいます。 長崎教区のカリタスジャパン大槌町ベースをサポートしています。
この大槌町のベースには12月8日に入りました。
このベースは長崎教区の大槌町ベースですが、カリタスジャパンが応援しています。
責任者は長崎教区に出向していますサレジオ会の古木真理一(まりかず)神父様がベース長でその下の1スタッフとして働き始めております。
神奈川の北原さん、またどうぞおこしください。貴方が働かれた最初のときからは見違えるほど、このビジネスホテル寿は変化しました。みちがえっております。来れれるとびっくりなさると思います。 1,2階は綺麗になりました。
この大槌町の被災地の印象は石巻に似ております。町は壊滅しています。
仙台から離れること210kmほどでしょうか、かなり田舎でインターネットも思いのままになりません。 ブログは更新できず、メールも見ることが出来ません。 お許しください。 町は人口が11000人ほどで、1500人ほどが死者、行方不明者で、町長さんそして町会議員のかたが数多くなくjなられました。
町は突き出した小さな山を挟んで2つに分かれています。その真ん中ほどがビジネスホテル『寿』です。町の中にはコンクリートの家屋がまだかなり残っていますが、順次壊しておりあと半年もすると一面土台しか残らないと思います。 その山に沿って震災当日は火災が起こり一日ほど燃えたようです。小学校も被災して燃えて今は仮設の校舎で勉強しています。
今日は大晦日、川には遅れた『サケ』が遡上しており、今なお産卵しています。私どもは手の届くところでそれを見ております。
このベースは正式には2011年12月13日に開所式を行い翌日から募集をかけております。30日までは、塩竃に来ていただいた、イエズス会の柴田神父j様が11名のどのボランティアを連れてこられ、同じ日に大阪の富田林高校の成都さんが20数名(1年生)来られボランティア活動をいたしました。

私も時々現場に出ます。近頃は現地のNPOと今協力して移動販売で野菜やその他を売っています。 仮設住宅を巡り、接点を探しています。 何しろ仮設住宅群が50群ほどあり、環境は悪いです。 雪も少しですが降りますし大変寒いです。
地元の社共はまだ健在でNPOも働き、古木神父様が現在は少しずつ現地の人々とつながりを作り初めています。

2011年12月2日金曜日

自分の生活に戻ると嫌なニュースに遭遇する。



これは先日南三陸町にボランティアで行ったとき撮影したものです。 あのガレキに覆われ、津波で流された川の中にサケが遡上し、子孫の繁栄のために最後の力をふるっていた。

現在日本では変な現象が起こっている。 なぜだろう? いつも考えさせられる。
先日のテレビや新聞を見ていると、東北の大震災で起こった被災地からのガレキの受け入れで、反対や嫌がらせ、苦情が相次いでいる。 大変困っている東北をなぜ助けてくれないのだろう? こんなに日本のモラル、落ちてしまったのだろうか? 放射能が入っていないガレキでさえ、何か理由をつけて反対し、すぐに苦情の電話をする人々の心情が分からない。 日本昔はもっと痛みを分かつ、国民ではなかったのだろうか? 
東京が受け入れているのは分かる(これにも多い反対があるようだ)。 これはガレキとは関係がないが福島原発の電源はほとんどが首都圏に送られていたもの。 そのことの自覚が人々にあるだろうか? 自分たちが使っていた電気で、困っているのだからもっとガレキの処理をしてほしいものだ。1万5千トンほどでは大したことはできない。 東北で2500万トンほどのかガレキがあるらしい。
500万トンくらいのお手伝いができないのだろうか?
佐賀県が受け入れると決定したのに、多くの住民が反対し、仕方なくその申し出を引き下げたらしい。困ったものだ。こんなにひどいエゴイストがいるのだろうかと悲しくなる。
ボランティアをしていると若い人からお年寄りまでたくさんの日本人がお手伝いに来てくださり、日本て捨てたものではないと現場ではよく感じるが、 現実の世界に戻るとひどいことを見せつけられる。

被災地にそろそろ戻りたいと考えている。 今度は釜石より上のもっと寒いところになるだろう。
パソコンが使えるか定かではないが、現場に上がったら報告をいたします。 またどうぞよろしくお願いいたします。 皆様のお助けがまた必要になると考えています。


ガレキのはいいたこのように浅い川の中でサケの命の営みをしていた。


サケの死骸を引き上げたのだろうか、それとも満ち潮で陸に上がったのだろうか、死体が散乱していた。


川の中は自分の使命を終わったサケが白い体を横たえ死んでいる姿が目立ち、その中を泳ぎ回り最後の力を振り絞り生命の営みを続けていた。


すぐそばの河原ではサケが泳ぎ回り、都会では見たことのない写真を撮らせてもらった。


水深10cmくらいだろうか?背びれを見せながら泳ぐサケ、オスがメスの近くで動き回っている。
生まれて初めて見る生きたサケの営みだった。

2011年12月1日木曜日

20111122日撮影 陸前高田の現在


日本100景で選定された陸前高田の松林7万本はこの津波でわずか1本残され、市民の希望の松として、一躍有名になったが、津波の被害は大きく、この時点ではほぼ枯れてしまっていると見た。 保護のために幹に手当を施しているのだが。全国的にも有名になったこの松の木は周囲にガレキの集積場があり、現場に行くことは平日では作業車両がひっきりなしに出入りして難しい。 この日はたまたまお休みであったので撮影もできた。
このそばにある建物の被害もひどく2011年3月11日の津波で破壊された鉄筋コンクリートの建物は手つかずのまま放置されていた。



三陸地方にはいたるところにこのような巨大な水門が設置され潮の満ち引きをコントロールするものがあったが今回の津波には全くその効果を発揮することはできず軽々と津波がこの防潮堤の上を越していった。


今回の津波を経験した日本人は危機管理の最大の部分の予測の甘さを知らされたようだ。今後はこのクラスのM9以上のスケールを考え、予測し対策を考えなければならないことを突き付けられている。


この希望の松の木は優に20mを超す巨大に成長した1本だが、結果的には塩害さらされたようで被災の直後に真水で洗うことができればよかったのだろうが、生きることが精いっぱいで、そこまで気が付かなかった惜しまれる。 気仙川が流れているので真水を得ることもできたと考えられるのだが。


これは気仙川で震災の跡がまだ川の中に残されていろいろな遺物が水面から突き出していた。 たぶんガードレールだろうが、そんなものまで見ることができる。 この時期jはたぶんこの川にもサケが遡上してきていることだろう。


この気仙川の中間にこのような異常な光景がまだ残っており、水面下はもっといろいろなものが沈んでいて浚渫をまっているようだが・・・・・


この川を遡上した角南が左右の気仙地区と右側の陸前高田市を破壊尽くしてしまった。 奥の建物はアパート風で外形は残っているのだが完全に仲間で津波が入り込み、現在は無人の状態で解体を待っているのだ。



これがそのアパートの写真だ。 ひょっとすると学校かもしれない。 左側が体育館? いずれにしても定かではない。

蘇生のために手当は細越されているが根元が陥没しているために海水漬けになっている恐れがあったのではないか? 海水を浴びた被災地の杉や松はてきめんに赤くなり死んでしまった光景を見ている。


海のそばにあるこの建物は被災の時のままで放置されていた。 鉄筋コンクリートの建物でさえあの津波には破壊されてしまい、津波のパワーに圧倒される。