2012年10月14日日曜日

今後3週間UPができなくなるかもしれません。 お許しを


先日大槌町に車を届けました。
先日九州に行ってから直ぐ、東北に上がるのは大変でしたが、今朝方帰り、お別れをし、明日自分の場所を整理し、また上にあがります。 その間ブログをUPできるかはわかりません、UPできなければ3週間ほどお許しください。
東北を最後にしっかり見たいと考えています。
これは南三陸町で既に撤去されていると思います。
今朝は浜松カトリック教会でお別れの挨拶をさせられたので、ボランティアの経験を踏まえて、津波から直ちに逃げることを勧めました。
浜松は石巻同様それ以上に中田島付近は砂浜と何も堤防がなく、防風林の松林しかないので、どちらかというと福島に似ているかも。 周囲に頑丈なコンクリートのビルが少なく、左右に広く、高台まで距離があるので、新幹線の向こうまで車を走らせること、自分の体は自分で守ることを強調して、危険性を指摘して置きました。 知らないより準備をするだろうし、意識付けが大切だから、今後の生活の中に避難経路を確保することが大切だと感じ、それを話しました。
このようなシーンにならないことを願っています。

2012年10月9日火曜日

1ヶ月後の南三陸町


 2日間ブログがUPできなかったのをお許しください。
実は2日前の午後8時に高速の浜松西 インターを出て、大分県の中津ドン・ボスコ学園に荷物を持ってゆきました。 浜松で残された時間が少なく、次の仕事場は問題児たちを扱った、養護施設にゆき、その場所で仕事をしますが、子供たちは担当者がたくさんいると思いますのでそこでは仕事はあまりないと思います。 仕事場は、大きな農園がありあまり使われていませんので、そこで野菜でも作ろうかと考えています。 まだ直ぐではありませんが1月の頭に学園に赴任する予定です。
車を運転していて、昨晩感じたことは東京や浜松程開けていません。 田舎です。
2011年3月11日に震災を体験し、運転しながら九州に下ると、太平洋が大きく口を開いたところがたくさんあり、海抜0m地帯も幅広く存在し、あれほど大きな地震や津波に襲われるとこのあたりはどのようになるのだろうと、考える今日このごろです。
これはその3月11日の南三陸町のガレキの堆積した、人々の生活空間でした。 それがご覧のように人の入ることのできなくなった空間です。


建物として外観が残ったのはこのような鉄筋コンクリートの建物です。 しかし使うことは絶対にできない建造物です。 現在はすでに撤去されているのだろうと推測できます。


運良く倒壊は免れた日本の住宅ですが、津波に土台から破壊され、がれきに押し出されて流されて、終着点がこの金属のブロックに寄り添って傾いています。 これも撤去されていると考えます。


山の裾の、斜面には津波で押し寄せられたガレキが取り残されていました。 資材道具から家具、衣類仕事の道具や車、それに漁船等ありとあらゆるものが漂着していました。


普通では考えられないところに車が漂着して、引き波にもちされれず、山の傾斜面にトリ残されていた軽自動車です。


この写真も悲惨で何が何だかわかるものはすくなく、自動車のボディーからはずれただろうタイヤがこれも流れ付いていました。


被災か1ヶ月も立たない被災地を支援のトラックが右往左往して仕事を始めているのも、すごいなー。 何かをしなければと思いながら、記録した写真たちです。


昨日までオーナーが使っていたであろう乗用車が、ヘドロにまみれて、ボコボコに変形し、放置されていました。 これらの、もういらない(ヘドロ付き)のヘドロの原因の追求がして欲しいと思ったのですが、マスコミで取り上げられることは少なかったと記憶しています。


ここにも破壊され使えなくなった乗用車の哀れな姿が点在していました。 1ヶ月後でまだ被災地の現場はご覧のようにそのまま、被災者はじっと、避難所暮らし。


誰も力を落とし、失望感に苛まれ、じっと自分の災難を考えていられる時間でしたね。 これは何の残骸だろう?


日本の各地から集まってこられた人々の動きも遅々としてではありますが、いたるところに車両が動いていましたが、被災地があまりにも広く、大型重機さえ小さくみえ、数の少なさに心の痛む思いが毎日でした。


これは何だろう?南三陸町で撮影したものだがあまり思い出せない。 ちょっと見るとファイルのような塊? 実はどこか家の前で使われていたシャッターが変形してガレキになったものです。 これが金属ですが紙同様、ぐちゃぐちゃになってしまいます。


泥にまみれがれきの中に入り込んだ自動車の残骸! 見つけることができますか? ひどいものですね。 こんながれきの中に何台もの乗用車が入っています。


綺麗な自動車販売店もガラスが大きく展示効果を狙っていたショールーム、見事にガラスは粉々に壊れてどこに行ったのだろうと、がれきを整理するたびに、粉々になったそれらのガラス瀬戸物、変わら、木片が土の中にうず高く堆積しています。 これらが後世の研究者が土を掘り起こして、平成の東日本大震災の地層を見る証拠とんって堆積しているのでうね。

2012年10月4日木曜日

南三陸町の震災後1ヶ月


南三陸町の中に流れる川とその周囲は壊滅的な南三陸町のシーンだ。 ここを襲った津波は国道45号線の右側から入り、国道の高台を挟んで奥から左側に押し込み、町並みを潰していった。


奥の白い建物は多分県立志津川病院で、周囲の建物はほぼ壊滅状態。 建物玄関側にはビルが幾棟かは残っているのだが、津波が3階以上を襲い、殆どは使えることができないようだ。


これは南三陸町漁港側で鉄骨のみが残った建造物が存在するくらいで、ガレキの散乱だけがひどく、使えそうな建物は平地にはほとんどなかったと記憶している。


正面に見えるビルは生き残っているが、津波の侵入で、使うことはできないと考えられる。


ビルの骨組みしか残っていない南三陸町。 日本の建築はこんなにひどいもので、鉄骨で骨組みを造りそれに少し厚い外壁を取り付けただけの建築だから今回の津波にはなすすべを持っていなかったようだ。


これが南三陸町防災センターで、有名な若い女性職員が避難放送を実行しながら津波に飲まれてしまった建物である。 その後、このビルは多くの訪問者を迎えている。 この建物は保存か、解体かで地元で揺れているようだ。


県立志津川病院の裏手だが、この周辺は多くの家屋やビルが存在していた。 海に近かった建物はビルでもご覧のように、津波にほぼ壊滅状態になってしまった市街地だ。


このビルも悲惨な状態でよくここまで鉄筋コンクリートを壊す津波の破壊力の凄さを見せつけられた。鉄筋が入っているために全壊を免れたようだがひどい惨状を見せていた。


このあたりは海に直面しているので津波の威力が数多く残っている場所であった。


この3階建の鉄筋コンクリートの全体を覆うくらいの定置網だろうか、屋上から覆いかぶさっていたのにもびっくりだ。


これはガソリンスタンドだと思うが、1ヶ月後にはこのようなひどい状態だったが、この数カ月後には外見はあまり変わらなかったが、ガソリンスタンドとして再開されていた。


ご覧のように細い鉄骨ビルは変形して、悲惨なシーンを見せていた。 引き波が去ったあとは人々のガレキがうず高く取り残されていた。


津波が引いたあとの被災地は1ヶ月後も同様なひどいシーンを見せていた。


ここも三階以上まで津波が侵入し破壊し、漁具を残して行ったり、がれきを破壊した所全てに多大な仕事を残していってしまった。


この写真は背景の右側の高台に一軒の家があるが津波はこの建物の2階まで壊して行ったのを覚えている。 この建物の右下にアパートか、ケアセンターのようなものがあったが、その建物の屋根までがれきを残していったのにも驚かされた。

2012年10月2日火曜日

2011年4月の南三陸町の惨状


司牧センターの前庭です。
左側は芝生が1年半でよく伸び長さが25センチ程に伸び、結構この芝を刈り上げるのは大変でした。今朝その切った芝を90Lのプラスティック袋にいれて見ると10袋位になりびっくりしています。
おかげで、綺麗になりました。
左の茶色の部分はほぼ根まで切り込んだので、この芝がが揃うには1ヶ月ほどかかるかもしれません。
まだ右側に半分残っていますがこれは成長が少し悪いので、時間はそれほどかからないかもしれません。


この芝の中には樹木が少し植樹してあるのですが、前回の台風と今回の台風で痛めつけられています。 海が近いので潮風が吹き付け、周囲の樹木を枯らしてしまいました。


今回の台風で同じく潮風が入ったらしいので、昨日から真水を散水して塩を流しています。 成功するかどうかはわかりませんが、成功することを願って散水しました。 今日の午後にも用心のために散水して葉と樹木にかけて塩を流しました。


上に見えるのが90Lのプラスティック袋に入れた芝です。 これをどこで処理しようか思案中です。 あまり周囲に迷惑をかけたくないので考えています。


これは気仙沼から最初のボランティアを終わり帰るときに少し寄った南三陸町の写真です。 津波が街の中に押し込み高台から山の裾野に植林した杉林までガレキが押し込み凄い状態でした。


高台の裾野にある民家まで津波が入り斜面を壊し、ガレキが入っているところまで津波が押し込んで来たところです。 この民家にも津波が押し込み玄関か窓か定かではないが室内まで外壁を破壊して侵入していました。


高くコンクリートで作った土台だけ残して上の家屋は完全に破壊され、どこから流れ着いたか、ガレキが散乱していました。 奥は多分南三陸町の役場だと思います。


コンクリートのしっかりした建物を残しあとはほぼ全部破壊された南三陸町です。


周囲はご覧のように、ガレキが散乱した被災現場です。


どこを見ても粉々になった、がれきの散乱した被災現場はどのように復興したら良いのだろうと考えながら、被災地を見て回った。


ガレキの山の後ろに見えるのは老人ホームの建物でこれは高台にあるのだがこの1階まで津波が侵入した形跡が残っていた。


これは南三陸町の中心付近だと思います。左後ろにある大きな建物は県立南三陸町病院の近くだと思います。


高台の近辺で、ご覧のようにガレキが散乱し人家はほとんど残っておらず、南三陸町は壊滅的なダメージを受けた、現在の南三陸町はどのように変化したのだろうと考えています。


上の写真は3階建のアパートだが、驚くことに屋上にガレキがたくさん残っていた。 これは津波が完全にこのアパートの屋上を覆ってしまった、証拠だが被災のひどさ、津波の規模に驚かされていた。


遠景に小さく見えるビルだが、周囲には全く何も残っていない、南三陸町の被災現場だ。
どうしてこんなにガレキが粉々になってしまったのだろう。津波のパワーに改めて驚異を感じない訳ではなかった。

2012年10月1日月曜日

台風一過皆様いかがお過ごしですか。 まだ暑いですね。


昨日はUPが遅れてすみませんでした。 
前の日から四日市に子供たちを連れて行っていましたので。 翌日、帰る頃は、台風が接近していたので、12時頃に四日市を出て乗用車で慌てて浜松に戻りました。
途中ひどい雨が時折殴りつけて降りかかり、心配しましたが愛知県上陸前に帰り着くことができたのがよかった。
昨年の被災地を襲った台風に似ていましたね。
周囲の農家の方々心配していましたが、少し被害が出ました。 左の温室、ビニールが破れてしまいまた張替えの必要があるようで、可愛そうです。
中ではかぼちゃを作っていましたがそれの被害は思った以上にひどくなく、それがすこしよかったかな?くらいです。
ここは浜松の司牧センターで、現在私は左の温室がセンターの庭で、この芝をハサミで刈っています。 結構重労働ですよ。


この写真は先日の台風とは関係なく、震災後一ヶ月の気仙沼の港にゆく前のシーンです。
買ってそれほど経過していないような車も、これで使えなくなってしまいましたね。


壊れてもしかたがないような年季のはいった建物でした。 今回の津波でご覧のように、粉々になった、日本の木造建築のがれきです。よくこんな小さく砕いてくれたと感心です。


古い家屋の津波後の結果です。 やはりボランティアでお手伝いした家は、お金持ちの家が残り、貧乏な方は、輪をかけて被災をされたと感じています。 上等な材料を使えなかった家屋は多くが被災したと痛切に感じてきました。


どうして、お金持ちの方の家屋を手伝わなければならないの?と疑問を持ちながら、ボランティアを当初はしたものでした。 左の家の外壁見てください、途端張りでかなりサビが入っていますね。


このような家屋はやはりあっという間に破壊されています。 これはよく残ったと思いますが、使うことは全く不可能ですね。 これは気仙沼の高台の下位に位置した狭い路地の建造物でした。


ご覧下さい、こんなに粉々になった日本建築の残骸です。 多分これだけ気仙沼は建造物が古くなっていたのだなーとこの写真を見て感じます。 このがれきの中に新しそうな材料はあまり見えません。


この建築の柱を見てください細いですね。 この惨状を見るとこのあたりは街を作り変える時代に来ていたのではと感じています。 釜石の街の中の鉄筋のビルでさえ古いなーと感じていました。


失礼ですが、壊れても仕方がなかったたてものだと感じますが、すごいですね。 ただ被災地で新しいなと感じた日本の現代建築、 ひどい作りだなーといつも感じたボランティアの期間でした。 
被災地をあまり外国の方々に見せたくないと感じたくらいですから。 理由は上の建物と同じく、細い柱で薄い壁、例えばレンガ造り風、プリントレンガ、外壁の厚さ20mmくらい。 津波で一気に打ち破られますね。


流れ着いた軽自動車だろうか?うまく空間に入り込んだものだ。 後ろの白い袋は、ヘドロをいれた土のう袋で、当時この袋が見つからず苦労したものでした。


このように薄い外壁、細い柱で作った人が住む家屋、壊してみないと分からない貧乏な建物、今後はもっとしっかりした住宅を作ってもらえるのだろうか?と心配だ。


ご覧のように、現代建築よりもっと悪い、トタンの外壁、トタンぶきの屋根、雪の降る気仙沼、東北の人々、お金をかけてしっかりした住宅を作れなかったのだと、感じています。




せっかくの自分の大切な財産である乗用車もご覧のような無残な姿に、1時間後くらいにはこんな格好に変身してしまった。大津波の爪痕。



がれきの後ろの黄色い建物、これが日本の住宅建築です。見るだけで恥ずかいいです。 穴があくと分かってしまうひどい建築。コンクリート風だが実は紙を敷いた上に薄い外壁を貼り付けただけの建築。 この機会に建築業界、改心するだろうか? 哀れな自分たちを恥をいたるところでされしていたが・・・・。 電柱もご覧のようにボッキリでした。 脆さをさらけ出していましたね。



街の中で腹を見せている漁船。 びっくりだ。
好き好でがれきを乗せた訳ではないのだが・・・・