2012年12月30日日曜日


一日早いですが、早めに新年のご挨拶をもうしあげます。
皆様にお手伝い頂き、何がしかの復興のお手伝いができたと思います。
安倍政権が発足し、福島担当の大臣がついた事は、何か復興の進歩がありそうだと感じております。 福島だけではなく、岩手、宮城、福島、茨木、千葉等震災で被害を受けた県が一日も早い復興のつち音が響きますよう、心からお祈り致しております。

これは今年スケッチに行ったとき、偶然に仙台の荒浜で日の出を撮影することができました。 海上から太陽があがり海に反射する撮影チャンスはあまりないのですが、たまたま仙台湾で撮影ができました。
砂浜も綺麗になり、ただびっくりしたのは復興のために大型のトラックが砂浜に道路を作り運行していたのにびっくりでした。
元日もこの画像でお許しください。

2012年12月22日土曜日

津波のパワーに驚かされる


このスケッチは釜石市の根浜海岸、大槌町の隣の湾にある、学校のそばの桜の木がボッキり津波で折られて、無くなった木だ。 その後ろは同じく桜の木だが少し細く、これも同様に切断されていた。 津波が大変強いところは根こそぎ持ち去られないで、このように切断されてしまう津波のパワーに驚かされてしまう。
塩釜でボランティアをしていた頃、七ヶ浜海水浴場では、海岸に植えてあった松ノ木がこれと同様何本も一気に切断されていたのを記憶している。

今日は大分県中津市は雲に覆われ、朝から小雨が継続的に降り続いている。 従って外の仕事をすることなくj、食事準備や、クリスマスの食料の買い出しにお付き合いしていた。 午後からは耶馬溪の奥で柑橘類を栽培している農家に柚子をもらいに行った。
これらは既に出荷は終わったので、傷がついたり、冬至以降はユズもあまり出ないので、もらって行って良いと言われたのでもらいにゆきました。 柚木にハシゴを直にかけて、自分で収穫した。柚子の木には鋭い刺が沢山あるので、最大の注意を払いながら収穫した。 手袋は軍手では全く役にたたず、皮の収穫用手袋を借りて収穫した。 明日はこれを持って長崎のカトリック診療所に差し入れにゆきます。 雪が降らなければ良いがと少し心配中です。

2012年12月21日金曜日

鵜の住居交差点ん前の鉄筋ビル




このスケッチも岩手県釜石市鵜の住居地区の一番目立つ国道45号線の交差点にまだ、手つかずで、残されているからすごい。 何のためのビルかは定かではないが、車で大槌町から釜石方面に来ると3差路の正面、そして信号があるから、車で止まって見ることになる。
津波は鵜の住居地区の堤防を破壊して侵入し、スケッチからお分かりの通り3階まで侵入し1、2階を大きく破壊。 同時に周囲の住宅地を壊滅的に破壊していった。鉄筋のビルはそれでもまだ10軒ほど残っているだろうか、それと釜石方面に向かう住宅街を破壊しているので、解体されずに残された住宅や事務所等の建物がまだ少し残っている。

大分県今日は朝から雲が垂れこめ、暗い朝だった。冬至のためだろうか一番夜の長い日で、明日から少しずつ明るさがましていくのだろうか。 
この大分県は冬至でかぼちゃを食べ、柚子湯に入るそうだ。 今日は地元の農家の方が、柚子湯に入りなさいと、10個もくだされた。

今朝から運悪くまたエアコンが動かなくなり寒い思いをした。 仕方がないから、仕事が終わってから早速もらった柚子を浮かべてお風呂に入った。 残念ながら、現在自分の嗅覚が悪く、あの柚子の良い香りが嗅げないのがつらい。

それでも今日はエアコンが動かないので、体を温めるために柚子の入った風呂を2度味わうことにした。
お湯を貯め終わる頃、運良くエアコンが動き出した。『どうして?』全く分からない。 今日は50回ほどリモコンのスイッチを動かしただろう。 冷房にしたり、暖房にしたり、除湿にしたり、ありとあらゆることをしてみたが。反応は全くなかったが、風呂のガスを使いだると動くのか? 前回も同じだったような気がする。 『なぜだ?』

申し込んだので、明日以降修理に来てもらうことにしている。

2012年12月20日木曜日

鵜の住居消防署


このスケッチは岩手県大槌町から仙台方面に下りた町で、町自体の解体が進み、鉄筋コンクリートの建物が数軒残る地区で、鵜の住居(うのすまい)と言うところだ。これは釜石の消防署の出張所で津波の被災に会う。消防車がまだ格納庫に入っていたが、稼働するかどうかは定かではない。 しかし人が見当たらないので多分消防車も被災したようで動かないのではと推測した。
今回の震災では多くの消防団の方々が、自分たちの日頃の責任で防潮扉を閉めたり、避難誘導で多くの犠牲者を出したと伺っている。 彼らの今後のあり方がその後議論されたようだ。 これを機会に自分たちの命の大切さ、自分が先ず危険から逃げること、そして住民は自分たちで他人に迷惑をかけることなく、自発的に自分を守ることの大切さを学んだことだろう。
今日の記述が少し遅れてしまった。 今は午前2時46分だ。 昨日は朝から午後5時まで梅の木の剪定で疲れてしまって、パソコンに向かっていると無性に眠くなり寝てしまった。 そのためか目が覚めてしまい、ブログのUPを思いだしいま記述しているところだ。

梅の剪定実にやって見ると難しい、これで良いのだろうか、どのように形を整えたら良いのだろうと、数年間伸び放題の、密集した枝を払っている。 
自分は昔から樹木や盆栽に興味があり、読んだり知識を少し入れたことがあるので、少し役立っている。それでもどれを残したら良いのだろうかと迷いながら、黒い大きな原型の樹形を探しながら、徒長した枝、交差した枝、下を向いた枝等を切り詰め、樹形を整えている。 先ずは原型の樹形を探しながら剪定している。 迷うことは梅の新しい花芽が沢山ついている徒長した枝を切るとびっしり花芽がついているのがもったいない。 これを切ると花が少なくなるし、実が付かなくなるのではと気をもんでいる。しかし 『梅切らぬ馬鹿』の諺を思い出しながら日々葛藤している。 もっと大きな心配は、これ明け剪定して果たして次の春頑張って花をつけてくれるのだろうかが、一番の心配だ。

2012年12月18日火曜日

吉里吉里海岸の現状


このスケッチは大槌町のとなり吉里吉里海岸の様子だ。 砂浜がありそれをまたぐ国道45号線が山田町に伸びている。 この橋は欄干が津波の押し込んだ陸方向に向かって折れ曲がっている。
現在も堤防はご覧のように横転し、この上を津波が押し込んできたのが分かる。
吉里吉里漁港はこの後ろに有り、大きな被害を受け赤浜漁港以上に何もない。
砂浜は夏に何度もボランティアが大量に入って海岸清掃を行ったところだ。 その結果かなり綺麗な状態で再生されているが、まだここで泳ぐ人たちは見たことはない。

今日の大分県中津市は朝が中々明けずに暗かった。 通常7時は明るくなってくるのだが・・・・・
結構寒くあまが少し降っていたので午前中はパソコンに向かって仕事をした。
午後からは太陽も少し出たので昨日来梅の木の剪定をしている。 何しろ何も手入れをすることなく伸び法だに成長しているので、横に伸びった大きな幹から垂直に大きな枝が成長し、どのように伸びるかの予測ができないので、とりあえず幹の形に従って、戻すことを考え剪定している。

観光船『はまゆう』が乗った、赤浜の民宿 裏から


このスケッチは大槌町 赤浜の『はまゆう』が乗った民宿の裏側だ完全に津波の時は屋根まで水没し、港でドック入りしていた『はまゆう』がながされ、最後はこの民宿の屋上が停泊地になってしまった、有名なところだ。屋根はスレートが敷いてあり比較的平な建物であったために固定ができたようだ。小さな民宿で、現在はどのようになっているかは定かではないが・・・・・・
今年は昨年以上に大槌町は寒かったのでは?と心配している。先週は3日ほど連続で雪マークが出ていたので。

こちら大分県の中津は今日は実に暗い、7時半になっても、皆が気がつくほど暗い。 太陽が普通の日は7時くらいには出て明るくなるのだが、雲がおおているのだろう。7時半には雨も降っていたが、今は少し明るくなり、雨の気配は止まったようだ。 今日は外の樹木の剪定はできないだろうか?現在は梅の木を切っています。

2012年12月16日日曜日

大槌町ふれあいセンター


このスケッチは岩手県大槌町に今だ、残る公共の建物で、『地域ふれあいセンター』の建物です。この建物にはいつ手が入るのだろう?
津波は玄関方向から入り込み建物の中を攪拌し津波の出口を探したのだが壁で止められ、それでも、津波は後ろから押してくるので江岸寺方向の壁が壊れ内部の物ほとんどがそこから流出したようだ。 以前にそこの担当者に案内してもらい内部を見せてもらった。 一階は天井が落ちあらゆる天井の内部のものが落下し、床にはほとんど残っていなかったようだ。 2階は内部の備品はなく、小さなガレキや書類本類が散乱していた。 もちろん天井は落ち、3階の床、2階の天井まで浸水いていた。
3階は大きなホールでここには津波ははいいていなかった。
これは裏から描いたもので入口は左側の少し柱が曲がって描かれているところです。

今日の大分県中津市は霧がすごく、昨日の外気が暖かく、湿気が充満したためだろうか綺麗な霧のシーンを見ることができた。 天候は晴れのち曇りで、比較的過ごしやすかった。
ICレコーダーの録音も自分が考えていたようにレコーダーのHDではなく、何かの弾みで、マイクロSDカードに録音されていました。

2012年12月15日土曜日

大槌町の役場後ろから描く


このスケッチは岩手県大槌町の町役場で、自分がスケッチをした10月18日はこの右側の役場関係の建物を壊し始めていたので、いよいよ解体が始まったのかな?と心配をしているところでした。 
ひょっとしたらもう既に無くなっているかもしれませんね。
この建物も見学者の多いところで、大槌町ボランティアセンターの関係者が団体を連れて回っていました。ここも2階まだ完全に津波の入ったところで大槌町も津波で残った、あと数軒残すところにきています。

今日は大分県の中津市昨日から雨で低く雨雲が垂れこめ、重いゆうつな感じです。 
外は思った以上に暖かく、内部と外環の温度差が大きく鉄筋の建物は結露がひどくガラスは水滴で見えないくらいです。 明日は天気になることを期待していますが・・・・・。
ICレコーダーをあまり使わないのでたまに音楽をパソコンから取り込んだのですが、データーがなんく、オリンパスに問い合せています。 その間に自分でいろいろ原因を追求してみたら、基本的には本体のHDに録音するのが何かの弾みでまいくろSDカードに録音されたようでそこをチェックしたらデーターが入っているらしい。 しかしそれを読むリーダーライターが手元にないのでまだデーターを取り出せていません。 一つようやく解決です。
探せば解決できますね。
ソニーのパソコンはやはり自分では解決できそうにない。
メールも電話もなかなか繋がらないので苦労しています。

2012年12月14日金曜日

ソニーのパソコンがサクサク動かなく頭にき始めた


これは同じ民宿で、裏手に回って描いたものだ。 この後ろが赤浜の漁港で東大の海洋研究所があるがこれも津波に2階まだ侵入され、現在は3階で何か仕事をしているらしく、蛍光灯が点灯していた。 この右後ろ奥、東大海洋研究所の裏に大型の漁船が流され、丘の上に取り残されていたが現在は既に撤去されていた。
自分も観光船(はまゆう)が乗っているのを見るチャンスはなかったが、撤去後にこの民宿を知ることができた。 周囲の住宅は全滅でこの近くにあった赤浜小学校も既に撤去されてっしまった。

中津は今日は暗く、現在は雨が少し降り始めた。
明日はどうだろうか?
現在自分のテンションは下がり気味だ。 理由はソニーのパソコンの速度がどんどん遅くなり、頭にくるぐらいだ。 いよいよ修理に出さなければと考えるようになった。
ソニーも名ばかりで、あまり良いものを販売しないでいるために業績不振が継続しているのかも?
このパソコンは買った当時はテレビも綺麗に写っていたのが、見ることができたのは5日間ぐらいでGiga Pocket digitalなるソフトが良くないようで、何回自分でダウンロードしても回復できなかった。 Bluetoothも故障続きで使えた試しがない。

また変な警告が出始めた Shockwave Flashのプラグインが停止などと、しつこく出る。 消しても2、3分で出てくる。 イライラするばかり。

消せない、どうしよう? 再起動かな?

2012年12月13日木曜日

赤浜で遊覧船、はまゆうが屋上に取り残された民宿だ。


このスケッチは今年10月18日に赤浜でスケッチしたもので、唯一ここに残った建物である。
この建物は赤浜で唯一、建物らしく 残った1軒である。 
この建物の上に釜石の遊覧船『はまゆう』が津波で押し流され屋上に取り残された建物である。
遊覧船は釜石から修理のために赤浜のドックに入っていて津波にあい、打ち上げられた。
最初は記念に遊覧船を上に乗せた状態で保存の意見もあったようだが、被災者に良い印象を与えないらしく遊覧船は危険も含めて取り下ろされた。
この建物は残そうとする意見もあるようだが、どうなるかは定かではない。

九州の大分県、今年の冬はかなり寒いようだ。 昨日からエアコンの調子が悪く、昨日はいろいろ触ったのだが、回復してくれず、一番寒い日に暖房なしで一日中過ごした。
修理をしてもらおうと電話番号をもらったのだが、どうしたことか今日の午後にエアコンのスイッチが入り動き始めた。 今も動いているので、快調だ、暖房が入ることは、いろいろ余分なことは考えることなく集中して仕事ができることが良い。 明日はどうなるだろう?

パソコンの調子は全くダメだ。6千円出してソフトを2つ買い、いろいろ不要なものは削除してくれたようだが、検索が全く遅くなってしまい、Youtubeも快適に動かない。 困ったものだ。
買ってから3、4年たつが、CPUもHDも十分あるのだが、快適に動かない。 メーカーの策略を仕組んであるのだろうか?勘ぐりを入れたくなる。



2012年12月11日火曜日

赤浜に打ち上げられて取り残された小型漁船


これは今年10月に大槌町の赤浜でまだ残されていた。
個人または家族で使うくらいの小型の漁船が津波で打ち上げられ草むらに取り残されていた。 実際は漁港近くの住宅地だと想像するが、夏のあいだにお生い茂った雑草が大きく成長し10月ともなると紅葉し枯れ初めていたのが岩手県の大槌町だ。
ここは青森県に一番近く寒い中でスケッチをしながら考えたのは、持ち主は果たして津波で生き延びられたのだろうか? 船が港の近くに打ち上げられ、探せば簡単に見つかるところなのに、今だに動いていないところを見ると亡くなられたのではと想像してしまう。
前には中学か高等学校の生徒さんのテニスラケットがケースごと放置されていたのも気がかりだった。

2012年12月10日月曜日

東京までゆきました。


このスケッチも大槌町赤浜漁港のすぐそばの堤防だ。 堤防自体はガタガタに動かされ移動、横転し、全く役に立たない状態だ。
この近くには広場があり、そこはがれき置き場になっていたが、これを描いた10月18日にはようやくそのがれきを移動し始めていたので、現在ではなくなったのでは推測出来る。
この場所は海が近く、地盤沈下していたので、いつも海水が侵入して小さな池のような雰囲気があった。

ブログが遅れたのお許しください。
日曜日まで東京に帰っていたのでUPするチャンスがありませんでした。
東京、大分県はかなりの距離で移動するにはなかなか重い腰が浮かないのだが、飛行機となると早く、大分東京は飛行時間がなんと1時間15分ほどで、
あっという間に目的地に着いてしまった。 自分が運転して車で移動するとなると2日間ほどかかる距離だ。 文明の利器は素晴らしい。
ただ昨日は帰りは2時間掛かりびっくりした。 機内放送で知ったのは、ジェット気流が強くそれに逆らって飛行するので大変なようだ。 100人乗りくらいの小さな飛行機で時速300kmほどのジェットストリームに逆らって飛ぶのは大変なようだ。




2012年12月3日月曜日

赤浜の倒壊した防波堤の現状


ここは大槌町の赤浜漁港の近くで、道を挟んで左側、地盤沈下の激しいところである。 防波堤の向こうは漁港の施設と海面が近くにあるところだ。 堤防を破産ではいるが、その防波堤が壊れているために大潮になるとよくここが海水で覆われるところだ。 

このスケッチの斜線で塗ってあるところが壊れなかった堤防でむこうに海産物加工場らしきものが稼働し始めたようだ。 
その後ろの段々になった部分は大槌町の採石場だ。 岩手県は県名に岩が入っているのは。岩山がたくさんあるからだそうで、大槌町だけで自分の知っている採石場が3箇所もあり盛んに岩石を運び出している。 多分これらは堤防やその他の修理に大量に使われていて、上のスケッチの砕石場は32万トンの採石許可が出ていた。

ところでスケッチをした、ここも堤防のパーツが散乱し、道路だけは一応車が入れるように整備され高低差は盛土をしてなんとか入れるようになっている。 ここでは10月18日の朝方、道路に椅子を出して堂々とスケッチをしても咎められることはなかった。
ご覧のスケッチのように側溝のフタがなくなっていて大潮で浸水でもして、こんなところに車で入り込むのは危険である。

どこも漁港では少し大きなスペースがあったために、 自治体はとりあえずがれきの整理のためにこのスペースを活用しガレキをおいてしまった。 それらがネックで漁港の復旧の妨げとなっている。



2012年12月2日日曜日

岩手県大槌町赤浜の防波堤


これは岩手県大槌町、 小鎚川の河口があり、うしろの建物はその小鎚川の防潮堤の水門コントロールの建物だ。 さすがに津波は上のコントロール部分の通路まではいたらなかったようだが、したにある防御の水門は果たしてどうだったのだろう? 津波を止めることはできたのか、その前に電源がストップして機能を果せず破壊されただろうと推測出来る。 
しかし津波はこの水を止める水門を軽く超えて侵入したので、何の役にも立たなかったのが現状である。 しかしこの水門の建物は東北では壊れて倒壊したものは見たことがなく、しっかり立っている。(岩手県)

この絵は街を守る防潮堤が長く繋がっていたのだが、ご覧のように内陸部に散乱して現在も哀れな姿を呈している。 以前にも述べただろうが、M9の地震で大きく揺さぶられ液状化現象と振動でジョイント部が揺さぶられこれが外れたと予測する。 その後大津波が襲い本来の波や潮を止めることはできても本格的な津波は止めることが全くできなかった。

 これらの結果をしっかり原因究明し、まず震度9でもジョイントが外れない、傾かない防潮堤の建設が必要だろう。 防潮堤がしっかり壊れないで残っているところを見たことがない。 部分的には壊れずに残っているところはたくさんあるのだが・・・・・(津波の強度と方向による違いだろう。 コンピューターによるシュミレーションで強度に応じた堤防の建設が求められる。

何10トンもあるコンクリートの固まりが津波に流され、散乱しているのを見ると津波のパワーの凄さを感じさせられた。



















2012年12月1日土曜日

アメリカに渡ったプロ野球の選手、英語でインタビューできるかな?


これは山田漁港で被災を受けた漁船が係留されていた。 被災後は多分仕事に使う予定で持ってきたのではと推測できるが、その後、今も変わらずに漁港で陸に上げられたままで、既に1年半が経過している。 
被災地では新造船が支給され始めていたので、これが使われることはないだろう。 左側は画面に入れることができなかった。 この漁船は完全に津波で漁船が半分に切断されてしまったものだ。 以前記述したと思うが山田湾の普及はかなり盛んで、湾内には多くの新しい筏が浮いていたのが印象的だ。 このスケッチだと右側に山田湾が展開している。

話は全く違うが、
日本からメージャーリーグを目指して出ていったプロの選手がかなりいるが、生き残りが厳しいようだ。 正直見ていて恥ずかしい。体を痛めて手術をして回復が遅れたり、解雇されたり、惨めだ。 そして正直あまり活躍ができていない。
私見だが、英語を学ばないで野球だけやっている選手はあまり大成できないようだ。 英語ができても技術が伴わない、体力がないなどで解雇されているような選手が多いのではないか? メージャーリーグでダメなら帰って来て日本のプロ野球に戻る『これは大変甘い!』数日前張本さんが小言を言ったようだが。 ごく当たり前だと自分も思う、 行ってダメなら、それこそやめてしまう覚悟がないから、アメリカでもうまく行かないと感じている。
アメリカに行った、5年もすれば英語のインタビューを聞きたいものだ。

野球バカと言われる高校生を改革しないとダメだろう。 高校出でアメリカに行こうとしている、花巻東の大谷選手、英語ができるかな? 英語をやる気があるかな? 日本に残ってプロで鍛え、アメリカに渡る気なら、絶対に英語をやるべきだろう。

入試と同様あまりかに渡る選手はデイゴの試験をやったら良い。TOEIC600点以上ではないと、行かせない。 プロ野球機構に良いことだと思う。 出ること自体が難しくなるから、プロ野球にも被害が少なくて済むと思う。