2012年9月17日月曜日

2011年4月6日 気仙沼漁港の惨状


これは気仙沼港の岸壁の隙間だ。そこにはブロックがハメられていたようだが、当時はそのブロックがなくなり海面が見える状態で、その隙間に近くにあった建造物や漁船がはまりこんでいた。
左側に見える厚さ200mmほどあるだろうかこの空間にはめることができそうなコンクリートブロックがいとも簡単に移動されているのを見ると当日の津波の威力をまざまざと見せ付けられる


これは丸焦げになったイカ釣り漁船だ。 ランプが火災に耐えて残っているのだそれがイカ釣り船だと理解できた。 船体に塗装されたペンキはすべて焼け落ち、火災の強さを感じることができた。


これも火災に遭遇した漁船だろうか、気仙沼港に漁船とともに係留されていた。 萌えた船体は黒くなり残りの鉄は既にサビが入り始めていた。 いつ海中の漁礁になるのだろうか?


この写真のようにコンクリートのブロックが載っていたようだが、津波が入った瞬間に持ち上がり内部に移動し、このようなブロックをいくつも見つけることができた。


仕事に行くのだろうか、それともボランティアさんかな、この頃は自動車で移動するには時間がかかり、こんな自転車通勤が多く行われていた。


これは施設の美品をほとんど洗い流された気仙沼魚市場の一部で、人気をほとんど見ることはできなかった。 震災を免れた漁船も数席係留されていた。 これらの漁船は当時外海にいたのだろうか?


道路と岸壁をカバーしていたコンクリートブロックはほとんど海中に没することなく道路側に多くが移動させられたことは? なぜ? あんなに重いコンクリートが懐中でうかされ移動したようだ。 凄い!


海上に係留されていた多くの漁船や船が海面が上がったことにより、コンクリートを乗り越えて陸地にたくさんが押し流された。 船体についていた漁船の船外機が何かにぶつかって漁船から外れたらしく、その傷跡を残していた。



焼け爛れた漁船の残骸だ。 既に水分がその上にかぶり赤くサビがではじめていた。 こんなに焼けてしまうと海中の漁礁になるのを待っているようだ。


車道のコンクリートも深くえぐれて、その上に流れ着いたコンクリートブロックが散乱してそれらを見入るボランティアの人々。


どこから流れ着いたのだろう、小さな一軒の家屋が道路に取り残されていた。 多くのがれきは内陸の家屋を壊しがれきにして内部にがれきの多くを送り込み、漁港周辺はガレキが少なかった。

2012年9月16日日曜日


この写真は2011年4月6日に気仙沼に入った時バスから撮影したもので多くの家屋は倒壊して建物の周囲にはその家屋から出て廃棄処分の家財道具や周囲に散乱した、津波で運ばれたガレキが山積みされていた。 想像には事欠かないが、復旧車両を通過させるために努力されたがれきの集積が、努力の結果で、自分たちボランティアの人々がかなりスムーズに入ることができ有難かった。


 国道45号線は仙台から気仙沼までは実際に入ることができにくかったのが、南三陸町、陸前高田の中心街 そして橋の落ちた歌津や吉本町くらいで、ここも迂回して探せば入ることもできた地域だった。 これも車道がしっかり確保された気仙沼市の中心街


建物のコーナーの柱を津波でえぐられた家屋を今後沢山見ることになったが、気仙沼ではビルの柱もえぐられ、傾いてしまったビルを撮影した。 お構いなく津波は車でも電柱でも運んで来て、引き落とし波が弱いとそこに残してゆく、習性があるようだ。


 気仙沼の港は漁船を津波が押上地上へと押し込んで残していった、漁船や船舶が沢山市街地にのこされていた。 道路のコーナーに残された漁船


車を軽々と持ち上げた津波はどこにでも手がかりがあると置いてきぼりにした。 この乗用車を2階のひさしにおいていってしまった。


岸壁には気仙沼の大火の原因となった漁船用の燃料タンクが数多く市街地まで流され、バルブを壊されたタンクはオイルを海面に垂れ流し、そのオイルに火がついてガレキと周囲の建造物を焼き払ってしまった。


大型の漁船が打ち上げられた港、船員に聞いて見たところこの船はたくさんの原油が入っていることダメージが少ないので海に戻し再生できるだろうと話してくれた。


気仙沼の岸壁には火災で焼かれた遠洋漁業の漁船が沢山係留されていた。 焼けた部分はいろいろあるし、丸焼けになった漁船、船室周辺とエンジン周りがメインで焼けたもの等が、たくさんあった。


津波の威力は凄まじく、岸壁のコンクリートのブロックもごらんのようにはがしてめちゃくちゃにしてしまった。


この漁船は半分焼失し、同じく船員に聞いたら、こんな漁船は使えず、海に沈めて漁礁にするか、スクラップで売れるかいずれかだろう・・・・・・・と


このガソリンスタンドも悲惨で、間口が大きいため、津波とガレキに押し込まれ、多くの遺留品を残された被災建物だ。大変な仕事を残されたものだ。


震災の時停電で動きを止めた時計、天井まではがしてしまったのは津波が天井以上に侵入した証拠だ。


津波の威力を見せつけた港の岸壁に用意された船を係留するための鉄の塊がいとも簡単に切断され、岸壁に転がっていたのにびっくり。


丸焦げになった大型の漁船だが、これは海中に沈めて漁礁になる運命だろう。 3日間燃え続けた気仙沼の漁港と近くに火災した鹿折(ししおり)地区がひどかった。


いたるところに津波の影響が残り、海面の高さが一気に 上がったために簡単に漁船でも家屋でも自動車でも一気に内陸の奥まで、あるいは逆に引き波で海中に引きずり込まれた。


震災1ヶ月後では仕事の気力を失った被災者たちには大変な仕事を残し、多くの人々が希望をなくしただろうと推測することは容易だった。


 岸壁は亀裂が入ったり地盤沈下で高さが狂い、復興の複雑さを考えさせられた。


岸壁の守衛さんの待機所だろうか津波でひっくり返り、海中に引きずり込まれる寸前で引っかかり海中に水没することを免れたもの。

2012年9月15日土曜日

気仙沼での最初のボランティア UPが遅れてすみませんでした


  自分たちサレジオ会の年間行事の黙想会が終わりブログをUPすることができました。遅れてすみません。

この写真は2011年4月6日の気仙沼ボランティアセンターに行った時のもので、最初のボランティアの受付を登録するところで、案内してくださった、カリタすジャパンの、小松神父様で。
被災後1ヶ月ほどでボランティアの受付はこのような簡易テントで行われていた。 時間は着いた時刻が正午ごろで、午前中の仕事は既にスタートして、それでも最初の被災家庭を案内され、午後から仕事をすることにしていた。


これは最初の仕事場で津波がはいった気仙沼の家庭周辺はこのように家の中から持ち出されたヘドロ混じりの家財道具がうず高く家屋の周り、道路脇に積み上げられ、それが終了した家庭は、その後の仕事が振り当てられた。 多くのご家庭では、ボランテイアがまず入りきれない、1ヶ月は自分たちでその処理に苦労されていた。


 気仙沼は宮城県の大きな港町で水産物の陸揚げは日本有数うの漁港で、それ等が重なって今回の被害ではヘドロの量も宮城県の中では石巻や気仙沼がひどかったと感じている。
ヘドロの原因は人為的なもので、地域の住民、漁業、水産業、工業、農業等を含めた自分たちが日頃出した海への廃棄物の量に比例していると感じている。
しかし既に震災後1年半すぎたが、被災地の動き出した仕事の様式は変わらず、ワカメやホタテの使用済みのゴミ類は相も変わらず海洋投棄が行われていて、被災地の反省がほとんど行われていないと感じている。 反省と改善が求められている


1ヶ月、自分たちで被災後の処理を終えた家庭では畳をあげ、床をはがし、ボランティアが割り当てられると、床下に入り込んだ、ヘドロの撤去が最初の仕事だ。 ここのヘドロは水産業のものが多く魚とそれらの引き起こしたヘドロは、悪臭を放っていたので全員マスク着用だった。


この自分たちのグループは静岡県の特に浜松地域のカトリック教会から派遣された有志たちで若きは10代の青年たちと上は75歳くらいを筆頭に活動した最初のボランティアでした。


女性たちは床下のヘドロ出しではなくこの日は、要請された自宅の風呂場やキッチン周りトイレ等が再度使えるようにヘドロを除去して水洗いをして、なるべくきれいにすることが任務でした。
当然水の便は悪く、十分に水洗いすることはできなかった記憶しています。


ここは近くの理髪店で、個人の事業だが、ボランティアの助けの入れない被災者で、若い男性がひとりでかなり大きなジムと理髪店そして喫茶店の仕事をされ、かなり疲れておられた。
その後自分たちのボランティアの仕事が終わり浜松に帰り、その後自発的に個人でボランティアに入り4、5日ボランティアでお手伝いをしたところです。


4月6日のボランティアの休憩時間に近くで写した写真で、がれきの中に乗用車が突っ込んでいるなど、珍しい光景ではなかった。 エンジンルームが一番重く、室内はほとんで空気の入った状態でドアがしまっているので釣りの浮きと同じくお尻を上げてどこかに引っかかる乗用車が多かった。


 これは道路が綺麗にがれきを除去し、車がある程度入れるようになった1ヶ月後の気仙沼の住宅地で、最悪の場所ではなく海からかなり離れているため、倒壊を免れた家屋が多く残っている地区でした。それでも津波は1、2m程は入っていて床上浸水で家財道具はほとんど廃棄処分でした。


がれきの中の乗用で押しつぶされるのを免れた流れ着いたところが住宅地の床屋さん前でびっくりでしょう。 津波が崩して押し流してきた住宅の残骸で、これらの整理に1年を費やすことになります。

2012年9月6日木曜日

仙台から気仙沼へ 国道45号線北上


これはどのあたりだろう?国道を走っていると気仙沼までは海沿いを走るので右側は海があり、そのために津波が入って被害を出している部分だ。
少しづつ気仙沼に近づいている。 この段階で入れなかった市街地は陸前高田で気仙川の大橋が2本とも崩落していたので、この中心街に入ることは難しかったと記憶している。
ここも空地だろうかガレキが流れ着き電柱まで押し流されてきたようだ。


高田付近まで津波が押し寄せてきたらしく斜面の土砂がむき出しになり周囲にはガレキの一部が流されてきたようだ。


ご覧のように鉄筋コンクリートの電柱もたくさんの被害を受け折れ曲がったり、このように完全に折れて切断されガレキとともに押し流されて散乱していた。


この写真では分からないが水田か畑かは分からないが完全に押し流され荒廃したシーンを作り出していた。 原状回復にはどれくらいかかるのだろう?


被災当日のテレビのシーンを思い出す方もおられるでしょう。これは畑の中に押し込んできた津波が温室を嘗め尽くすシーンだ。 黒い津波が白いビニールハウスを襲ってゆくと、最後はこのようにグニャグニャ に折れ曲がった温室の残骸がどこかに取り残されていました。


これが折れ曲がったビニールハウスの残骸です。 国道すぐそばに流され、取り残された津波の傷跡でした。


この近辺にあったビニールハウスはみなこのように津波に押しつぶされ、完全に使えなくなってしまったスクラップです。


ビニールハウスが一瞬にして潰されてしまった横に街路灯が同様に押し曲がって倒れていた。


被災した集落の中、生き残った住宅に地震の震動が原因だろうか、屋根瓦を落とされた家では瓦を乗せているシーンを見た。この時期は大工さんやインテリア、瓦やさん達を見つけるのは至難な業であったようだ。


ここは大きな倉庫か作業場だろうか? 内部にあった被災して品々が外の空き地に山積みになっていた。これらを回収するのにずいぶん期間を必要とするでしょう。


どこでもガレキが散乱し、津波のひどさを見せつけていた。 震災後わずか1か月、復旧は見られませんね。1年半経過した現在、がれき撤去がようやく終息に近づいていますが・・・・


右側から襲ってきた津波は歩道のフェンスか、敷地の垣根か分からないが左側に押しつぶいて行ったシーンが残されていました。 きれいな住宅も遠慮することなく左から1階に侵入した結果を見せています。


ここは気仙沼に近い隣町近辺だろうか、ここにも温室が折れ曲がりスクラップのように取り残されていた。 奥には津波の侵入したガレキが累々と散乱している。


この市街地は、今日の目的地である気仙沼市で、階上の横断歩道橋の前にバスは到着したようだ。


気仙沼の市街地も津波の入った低いところは1階の何メートルまで入り込んだのだろう? ガソリンスタンド同様被災をしていました。


ガソリンスタンドは開口部が大きく流れ込んだガレキは遠慮なく店舗を破壊し、がれきを残して行った。 津波は地下の貯蔵タンクをどうしたのか? 定かではないが、海水が浸入した給油機は完全に使えなくなってしまったようだ