2012年9月15日土曜日

気仙沼での最初のボランティア UPが遅れてすみませんでした


  自分たちサレジオ会の年間行事の黙想会が終わりブログをUPすることができました。遅れてすみません。

この写真は2011年4月6日の気仙沼ボランティアセンターに行った時のもので、最初のボランティアの受付を登録するところで、案内してくださった、カリタすジャパンの、小松神父様で。
被災後1ヶ月ほどでボランティアの受付はこのような簡易テントで行われていた。 時間は着いた時刻が正午ごろで、午前中の仕事は既にスタートして、それでも最初の被災家庭を案内され、午後から仕事をすることにしていた。


これは最初の仕事場で津波がはいった気仙沼の家庭周辺はこのように家の中から持ち出されたヘドロ混じりの家財道具がうず高く家屋の周り、道路脇に積み上げられ、それが終了した家庭は、その後の仕事が振り当てられた。 多くのご家庭では、ボランテイアがまず入りきれない、1ヶ月は自分たちでその処理に苦労されていた。


 気仙沼は宮城県の大きな港町で水産物の陸揚げは日本有数うの漁港で、それ等が重なって今回の被害ではヘドロの量も宮城県の中では石巻や気仙沼がひどかったと感じている。
ヘドロの原因は人為的なもので、地域の住民、漁業、水産業、工業、農業等を含めた自分たちが日頃出した海への廃棄物の量に比例していると感じている。
しかし既に震災後1年半すぎたが、被災地の動き出した仕事の様式は変わらず、ワカメやホタテの使用済みのゴミ類は相も変わらず海洋投棄が行われていて、被災地の反省がほとんど行われていないと感じている。 反省と改善が求められている


1ヶ月、自分たちで被災後の処理を終えた家庭では畳をあげ、床をはがし、ボランティアが割り当てられると、床下に入り込んだ、ヘドロの撤去が最初の仕事だ。 ここのヘドロは水産業のものが多く魚とそれらの引き起こしたヘドロは、悪臭を放っていたので全員マスク着用だった。


この自分たちのグループは静岡県の特に浜松地域のカトリック教会から派遣された有志たちで若きは10代の青年たちと上は75歳くらいを筆頭に活動した最初のボランティアでした。


女性たちは床下のヘドロ出しではなくこの日は、要請された自宅の風呂場やキッチン周りトイレ等が再度使えるようにヘドロを除去して水洗いをして、なるべくきれいにすることが任務でした。
当然水の便は悪く、十分に水洗いすることはできなかった記憶しています。


ここは近くの理髪店で、個人の事業だが、ボランティアの助けの入れない被災者で、若い男性がひとりでかなり大きなジムと理髪店そして喫茶店の仕事をされ、かなり疲れておられた。
その後自分たちのボランティアの仕事が終わり浜松に帰り、その後自発的に個人でボランティアに入り4、5日ボランティアでお手伝いをしたところです。


4月6日のボランティアの休憩時間に近くで写した写真で、がれきの中に乗用車が突っ込んでいるなど、珍しい光景ではなかった。 エンジンルームが一番重く、室内はほとんで空気の入った状態でドアがしまっているので釣りの浮きと同じくお尻を上げてどこかに引っかかる乗用車が多かった。


 これは道路が綺麗にがれきを除去し、車がある程度入れるようになった1ヶ月後の気仙沼の住宅地で、最悪の場所ではなく海からかなり離れているため、倒壊を免れた家屋が多く残っている地区でした。それでも津波は1、2m程は入っていて床上浸水で家財道具はほとんど廃棄処分でした。


がれきの中の乗用で押しつぶされるのを免れた流れ着いたところが住宅地の床屋さん前でびっくりでしょう。 津波が崩して押し流してきた住宅の残骸で、これらの整理に1年を費やすことになります。

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