2013年4月2日火曜日

南三陸町の防災庁舎と2011年4月初旬の気仙沼の被災地


ブログが近頃真面目に出ていません。お許しください。
色々仕事が重なり、疲れたりしております。そのために更新が出なかったりしています。お許しを!


このスケッチは南三陸町の真ん中に鉄骨だけが残っている、防災庁舎です。
ここでは震災当時仕事をしていた方が屋上まで逃れたのですが津波がそれ以上高く覆ったので多くの方々が亡くなられ、現在残すか撤去するかの話し合いが行われているようで、南三陸町を訪れる方々はかならずこの庁舎を訪れてお祈りを捧げています。
その理由は震災当時、津波がくるので避難してくださいと緊急放送を流していた、若い女性の職員が津波に流されて殉職されているので、余計に人々を引きつけているようです。
この庁舎は完全に津波で外壁は剥がれ、何も残っておりません。 震災当時はまだ周囲はガレキに覆われ、この庁舎もいろいろなものが絡まっていたと記憶しております。このスケッチの時は周囲は整理され、鉄骨しか残っていませんでした。 4月頃の写真を探してみましょう。撮影したと思います。  見つけましたよ! 撮影は塩釜のボランティアを担当していたころ南三陸町に入った時撮影したものです。 津波のパワーのすごさにあらためて驚かされます。


海の方から押し寄せた津波は街を破壊し、家屋を壊し、ガレキを含んだ津波が南三陸町を破壊してゆき、ガレキを含んだ津波のパワーが鉄骨の防災庁舎ほ直撃し破壊し、ガレキが纏わりついて、5月のはじめの写真がこんな状態で周囲の南三陸町はガレキに覆われていました。


場所は変わりますがこれは気仙沼の火災の入って地区(鹿折地区 ししおり)でしょう。 火災の傷跡をいたるところにみます。右側の鉄筋のビルも右側で火の手が上がり外壁を焦がし、左のビルは工場か? 内部で火災を引き起こした様子ですね。


4月の頭は被災地の真ん中は緊急に盛土して応急に作った道を自衛隊の緊急車両が多く行き来していました。左右は地盤沈下や、道路が切断されていたところが無数にありました。


これは燃料タンクの潰されたものだと記憶しています。跡形が想像できないほど破壊されていました。 気仙沼の港地区の一番ひどい被災地です。


これも後ろの白いものも、貯蔵用の燃料タンクでした。 後ろはそのタンクにとぼるための螺旋の階段を見ることができます。


海水をかぶっても火災は簡単に引き起こされましたね。 海水に混じった燃料が流れその上を住宅を破壊された材料がガレキとなり流れたのでプロパン等で火災を起こすと海面を伝って火災が類焼しました。


何も言えないくらいショッキングながれきの山で、火星を引き起こした地区はその後の雨で鉄類がシビを出しているのですぐに火災の痕だとわかります。


ここも火災の現場で多くのガレキが鉄だけ残し、赤茶けたサビを見せています。


このようなドラム缶は火災の原因となったもので、色々なところで見ることが出来ました。


被災の現場と後ろのコントラストが大きく、何処だったかな?と思い出しますが、ヒントが出てきません。あまり綺麗なビルは残っていませんでしたので。 もしかすると・・・・・ 違うな!


津波に流され最後は火災に丸焼けとなった乗用車でした。


これも赤茶けた鉄骨ですから、この近辺も火災に巻き込まれたと推測できます。


何かのショールームのあとで隣はひどい惨状です。 もっとも外見は残っていても港周辺は同様に大きな被害を出しました。


看板だけ健在ですが周囲はがれきの山で、現在は何も残っていません。 ごった返しの被災地の4月でした。

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