2011年11月15日火曜日

南三陸町でのボランティア参加


今回の東日本大震災の津波で残ったビルです。

先日(11日12日、13日)今回はボランティアのグループとして南三陸町に参加しました。
そのために金曜日からブログは書けませんでした。お許しください。
今回は南三陸町に入り、土曜日日曜日と仕事をしました。 塩釜での経験がありましたので、グループの責任者として参加でした。
車は片道およそ12時間ですから運転者も、同乗者も疲れます。 それでも頑張ってきました。
土曜日は2つのグループに分かれ、お手伝いをしていました。
一つは地元の漁業者の網の整理と、後は、仮設住宅でのコーヒーのサービスを行いました。私は仮設住宅へ。 ここでは週一回のコーヒーのサービスとその中での仕事や子供たちのケアーです。場所が確保されているので仕事は簡単でした。 ビブスを着ていますので、今までの奉仕のお蔭で簡単で、すぐにお話ができ、傾聴は簡単です。冬が寒くなる東北の冬のボランティアはこのような行動になると考えられます。 塩釜でもこのようなことはできると考えていました。 
朝10時に伺い、会場を整え、喫茶の準備をします。基本的には集会場の電気、ガス、水道は住民の方々の負担のようで、使用方法は考えます。ガスも自分たちで持参し簡単なガスボンベを使いお湯を沸かします。そこで、仮設住宅の方が訪れ、メニューに合わせ注文を受け、サービスします。 絨毯を敷いてありますのでじかに座り、皆様が互いにお話をしたり歌ったり、歓談していました。やはりお年寄りが多く参加されますので、加わることは簡単です。 お菓子等も持参しますのでそれを食べながらお話が進みます。 女性が多く男性は少ないですが、ぼちぼち参加されます。
午後からは子供たちも参加したり、若い奥様達も参加します。 比較的広い場所なので、子供たちを遊ばせるスペースは自分の家よりは広いために参加されるようです。
自分の意見では、飲食が紙コップや紙のお皿なのでできれば瀬戸物にしたいなーと感じています。
この日は子供たちが学校の発表会と重なったので参加が少ないと、シスターが話してくれました。参加したのはシスターと若い長崎の女子の大学生2人と、男性(私を含む)2人で合計5名でした。 塩釜でお会いしたウィーリー(フランスの記者)も取材で、私どもに参加してくださいました。
この日はベースには25人ほどボランティアが集まっていて、比較的多いと話してくださいました。 気候は前日が雨でしたが快晴で暖かくできました。
仮設住宅群はここではいくつあるかわかりませんが、皆にこのようなサービスができればよいのにと感じています。 ボランティアが少ないためにこのようなことができないのも事実のようです。 ボランティアの高齢者の方々にはこのような仕事が沢山開拓できそうです。
米川ベースは塩釜以上に現在は過ごしやすいのではと感じています。 以前は小さな教会でしたが、現在は地元の公民館をお借りできているので、宿泊のスペースは2階の男性用の部屋は広く、詰めると4,50人でも寝られそうです。 女性の部屋はみませんでしたが1階にあります。
今回はカメラを持参しなかったのでお見せできませんが、ボランティアはしやすいところだと感じました。 日曜日の報告は明日に回します。


場所によっては背丈より高い雑草が紅葉して、冬の訪れを待っているようだ。


被災地の一角に残された鉄筋コンクリート製の住宅がガレキを屋根に残し、まだそのままで佇んでいる。 周囲に地盤沈下も見られ水が抜け切れていなかった。


建物の間に取り残されたガレキが3月の惨状を思い出させています。


まだ撤去されていない乗用車や車両がところどころに残骸をさらしています。


夏を過ぎ周囲は秋の気配、冬の寒さが押し寄せてきています。春から夏に育った雑草も紅葉をはじめ、今後来る冬の寒さを心配しています。


ヘドロの押し込んだ室内は、泥まみれの家具をそのまま残し、見ただけで家族の痛みがわかります


 住宅の中はこのような光景がまだ残っており、住んでおられた方の安否を心配しています。


前から気になっていた病院の裏の2階のベランダには今でも漁船が残っており、いつ撤去されるのだろうと関心を示していた。


鉄筋コンクリートのビルも無残に津波に叩かれ、ほぼ半壊で崩れ落ち、津波の強さを改めて見せつけられた。


展示されていたのだろうか?、あの重い機関車までもが、津波に動かされてがれきのそばにまで移動されていて驚かされた。

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