2013年3月15日金曜日

復興予算の無駄使いと 七ヶ浜の被災地



このスケッチは何処だったかな? 多分気仙沼の被災した市街地(鹿折地区)でレストランかお店か分からないが、その時解体していたので、現在は撤去が終わったことだろう。 どんどん被災したものが少なくなってきていた。

こんな記事を見つけた。 このようなことが許されるのだろうか?
被災地の予算が全く関係ないところで無駄遣いされ、呆れた政治をやっているようだ。 誰も止めないの? ひどいな!

えっ!?がれき処理「検討」だけで復興予算約86億円 返還要請は検討なし 堺市
産経新聞 311()2052分配信
4月1日から供用が始まる「堺市クリーンセンター臨海工場」。建設費の一部が復興予算として交付される=堺市堺区(写真:産経新聞)
 東日本大震災で発生したがれきを受け入れない堺市が、復興予算約86億円をごみ処理施設の新設費などとして受け取ることが9日、分かった。がれきの処理に困った環境省が、受け入れを検討しただけの自治体にも復興予算の交付を決めたためだ。小さな自治体の年間予算にも匹敵する巨額の資金だけに、「本当にもらっていいのか」と疑問の声も上がっている。

 堺市によると、堺区の臨海部に建設総額約182億円のごみ処理施設を整備中で、今年4月に供用開始を予定している。

 市は昨年1月、この施設の建設事業費と老朽化している東区のごみ処理施設の改修事業費のうち、約86億円分を平成24年度の国の交付金対象事業と位置付けた。国の交付率に基づき約40億円を要望し、残る約46億円分を地元で負担する予定だった。

 しかし国は同4月、「堺市はがれき処理を検討している」として、市が求めていた通常枠の交付金ではなく、新たに設けた復旧・復興枠などでの措置を市に打診。約40億円に加え、地元負担の約46億円分も復興予算で交付する枠組みを示した。

 市は受け入れを決定していなかったが、国が「検討レベルでも交付条件に当てはまり、結果的に受け入れることができなかった場合でも返還を求めない」としたため、交付を申請。同6月にがれきの全体量が判明し市が受け入れなくても対応できることになったが、手続きは進行。同10月に交付が決まった。

 開会中の定例市議会で市議からは「一部を被災地への義援金とするべきでは」「道義的におかしい」と異論が浮上したが、竹山修身市長は「財源の確保は首長の責務。ありがたくいただきたい」と答弁した。

 がれき処理を検討しただけで同様に復興予算を受け取った自治体は堺市のほか、約36億円が交付された埼玉県川口市など6市町3組合ある。堺市の約86億円は突出して高い。

 環境省の担当者は「(復興予算は)広域処理を促進させるための起爆剤として計上した予算。がれき処理の検討を促すだけでも十分効果があり、問題はない」としており、返還要請は検討していないという。
がれき処理で協力しない自治体が多い中、住民の反対で処理の協力の意思さえ示さなかった多くの県、金をもらうことに関しては実に厚かましい。 税金がこのように使われてはたまらない。
宮城県のこの小さな漁村七ヶ浜、始めて入った時にショックを受けた。
こんなないガレキがあるのです。 助けたいと思わないの?同じ日本人なのにはずかしい。

津波で壊された住宅、全財産が粉々になって水田に飛散していました。 水田の中、どうやってこのがれきを回収するのだろう?と最初は考えた場所でした。


せっかく作った自分の家が一瞬にして土台からはがされ津波で押し流されてしまった現場でした。
これも自分がスケッチした昨年の10月にはすでに何もなくなり整地はできていました。


ここ、七ヶ浜は漁業と観光で生活をしていたようですが、民宿の大半は津波で壊滅していました。 多分これも七ヶ浜の民宿でした。 早いうちに解体されてしまっていまっした。


これは珍しい光景で、漁港の小さな作業小屋の屋根に船艇の尖った漁船が三角屋根に安定して取り残されていました。 安定したのはあと一雙の漁船が逆になりそのあいだに漁船がはまって立つことができていたのです。


漁港にあった漁船がまるで何かのモニュメントのように積み重なって壊れていました。 電柱に支えられて出来上がった、漁船のモニュメント。


この集落も比較的新しい住宅が多くそれでも津波は遠慮なく壊して去って行ったのが現実でした。これも仙台市の隣です。 宮城県の被災が一番大きいと思いました。(原発関連を除いて)


地盤沈下で七ヶ浜漁港の周辺にこのような亀裂が沢山ありました。 塩釜を担当していた頃測量している方々に聞いたことがありました。 地盤沈下はどれくらいですか? 回答はこの辺、1mから1.5mほどもあるかな?と応えてくれました・


津波はこのあたりで1階の屋根まで水没させていたようです。 海から50mか100mほどの集落です。


この頃搜索にはいられた警察の応援部隊でした。 水田に向かった進んでいたようです。 がれきの産卵が激しく搜索も困難だったと思います。


水田は一変しその中に倒壊した家屋や財産そして仕事場の漁業関係の道具漁船等なんでも入り込んでいました。 海水も抜けきれずにまるで溜池のようでした。


見渡す限りの粉々になったガレキは住宅、とその家財道具がメインだったと思います。 戦争でもこんなに住宅が粉々にはならなかったのではといつも感じていました。


応援を入れるために急ピッチでガレキの撤去、移動がほそぼそと重機で行われていましたが、あまりにも少なく、どうしてもっとたくさん来てくれないのとイライラしたものです。


被災現場はご覧のようにガレキが折り重なって散乱しています。 自動車もがれきです。


警察の捜索部隊が早朝に動き始めていました。 赤いコカコーラの自動販売機が流されていました。


これは何でしょう港から流された作業場か鉄骨の簡単な構造です。


これも七ケ浜で目立ったシーンでした。 津波が去ったあとに、自分の家の中に車が入り込んでいたことです。自分の家の自動車でしょうか?


スバルのインプレッサだったかな? ここを見学した人は皆ショックを受けたところです。 この地区は堤防の形状が良くなかった自分では感じていました。 津波が来た時に簡単に堤防を飛び上がることができると思いました。 そのためか、津波でこの近くにあった松ノ木が途中から切断されていたのに驚かされていました。
この家は1年後くらいに撤去されてしまいました。

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