2012年9月27日木曜日

気仙沼の被災地を歩く


浜松に帰って現在体の疲れを取っていますが、なかなか痛みがとれません。 普段の生活にも慣れ、現在は、教会のグループがヨーロッパに巡礼に行っているために留守番を主にやっています。
周囲は少しずつですが秋らしくなり、外での仕事も少し可能となってきました。
2週間前から初めた司牧センターの芝の刈り込みをうやり始めています。
何しろ1年半ほど被災地にいたために、誰も面倒を見てくれなかったので、芝が伸び放題で、高いところは20cmほどに成長していた、機械では刈れません(もっとも機械は壊れてしまいましたが)
従って、被災地と同じく原点に戻って枝切りバサミで、手で刈っています。
2時間は連続で刈りませんが、刈ると結果が凄いです、芝の山がいくつもでき、こんなにたくさんどこに捨てようか? これに悩んでいます。
上の写真は高台から気仙沼の港に入る階段付近から被災を写したものです家は傾き、場所によっては家もなく土台しか残っていない所や、瓦礫が至る所に散在し、ショックを受けました。


ここが高台と港町の平地の堺で高台は崩れないように護岸工事がしてあり、津波はここまで押し込み、瓦礫をどこにでも撒き散らして行った。


この写真は高台から降りたすぐそばの壊れた家屋の内部がむき出しになっていたので撮影しました。 内部はメチャクチャで手の施しようがないのが一瞬でうかがえました。これからどうするのだろう?家人はどこにおられるのだろう?うまく逃げられたのだろうか?


空き地はひどく瓦礫の集積場になったようで津波の引き波で海まで引き込まれなかった物が所せましと集積してその周りにはヘドロが乾燥していた。


これは多分2階まで津波が接近し、その上に乗った障害物が屋根瓦をはがしたり家屋を破壊して行った証拠でした。


面白いなと思ってみた乗用車のシーンですが、今後このような光景はどこででも見られた、当たり前の結果だとその後分かりました。 自動車は現代、エンジンが前にあるため重く、室内は窓も扉も閉まっているので、釣りの浮きと同様重いものが海水の中に沈み軽い室内を上にして浮遊した証拠でした。


生きていた樹木も海水のつかり、冬場で眠っていた樹木はそのまま死んでしまったり、強い樹木は春に芽を出して生き返った物も多かったですね。


軽自動車は簡単にこんな格好になるのは理解できるが・・・津波のパワーにはただ驚かされていました。

この写真も凄く、乗用車が持ち上がり浮遊していくうちに最後は折れた電柱にうまく引っかかり、このようなシーンを見せていた。


これは上の乗用車を裏から見たような格好で体を曲げることなく普通のポーズで撮影することが出来た。 これらの乗用車はエンジンが津波に浸かってしまったのでほぼ100%使えなくなって宮城県だけで35万台とも聞いた記憶がある。


こんな高級車でも津波に押し上げられ、だれも考えつかない結果を見せていた。


この乗用車前の家がオーナーの家だろうか? 乗用葉は被災地の至る所で、粉々ないなった物から、新車同様の車まで至る所に集積されて、廃棄処分を待っていたのを覚えている。


家屋が壊れてしまったのだろうか? 家財道具が散乱して流れ着いていた。


まだ瓦礫を移動出来ていない、気仙沼市街地の路地周辺のシーンだが・・・ ビルに囲まれた気仙沼港の内部で、弱くできたいたビルや、木造の家屋は壊れてしまったようだ。

2012年9月25日火曜日

高台から見た気仙沼市街地


ボランティアをやりながら、翌朝早く起きだして気仙沼の中心街に行きたいと思いなるべく、早く現場に出たいと思い地元の方に近道を聞いたら、自分は上の避難所にいるのでそこから行けば早いと教えてもらった。 避難場所も少し覗いたが、入るのは失礼だと思い、外から見せてもらったら、自衛隊の車両がたくさん止まっていたので、安心した。
この写真は気仙沼の3月11日に見た映像らしい高台が近くにあったので、そこを見た。 やはり当日は多くの人が避難し津波を眺めたらしく、高台で気仙沼港が一望に見えるところで、枯れ草が押しつぶされ、人々が来たことを示していた。
ここからの眺めはショックで、津波の大きさ、パワーを感じることができた。
いたるところにガレキが散乱し、家が傾き、あるいは完全に倒壊しているのを見ることができた。


これは大きな街らしく、ビルのあいだにあった木造の住宅は多くは倒壊してがれきになっていたるところの空間に散乱していた。


 これは倒壊したスペースだろうかガレキが狭しと道路まで完全に覆い尽くし、しかしそれでも幹線道路は1ヶ月でかなり車が通行できるように整理されていた。 しかしご覧のような路地はまだまだ時間がかかるだろう。


ここは幹線道路だろうか?道路が綺麗に見えるのは緊急で仕事をしたおかげだろう。
テレビの放送で見た気仙沼の津波はものすごく、大河が押し寄せてきた感じであったが、その割にはコンクリートの建物が頑張って残ったので被害がまだ少なかったのかな!と感じた。


これらの写真は高台からまず気仙沼の被害を客観的に見たいと、上からの写真もたくさん撮影させてもらった。 木造の建物はご覧のように粉々にくだけ散っていた。


真ん中の木造の家、よくあの大津波に耐えて残ってはいるが、『完全に解体、撤去されるだろう』は、下に入って感じた感想だった。


破壊尽くされた気仙沼港のの上から見たシーンだが、感想は古い街には建物も古くなって強度も減り、津波に耐えられるだけの力のない建物は当たり前のように壊されてしまった。


ここは高台から写したもので、家の屋根がこのように下に見えるのは近くにこれだけの高台があるので比較的避難がしやすかったと思う。 死者、行方不明者は比較的少なかったようだ。


ビルの3階、4階も屋上がこのように撮影できるのは高台が30m程はあるのかな?気仙沼はこの高台の裏が街で、小高い山が入り込んでいるので、ボランティアで泊まったマンションも全く被害はなく、津波が入った形跡もなかったので、ボランティアの宿泊に当時は貸していただけたようだ。


この様子だと津波は2階の床ぐらいかな? 2階の窓は壊れていないので、浸水した高さが予測できる。


津波の侵入はまず川から遡上し、津波の幅と高さが異常なためすぐに川の堤防を乗り越え、次は道路の何もない空間がか上にお仕上げてくるのが当たり前でそこから四方に水が押し広がり街を破壊した。 同時に海水はヘドロを含んだ真っ黒な津波でこの汚れのために家財道具をほぼ全部捨てることになったのが、これら大きな港町だった。(気仙沼や石巻)


屋上までガレキが上がっていないのは、水深がそれほどなかったからだと推測出来る。 これだけビルがたくさんあるのでかなり津波の防波堤になったと推測出来る。


これらの雑草は当日地元の人がここからも、破壊されてゆく故郷を見ていたのだと思うと、悲しくなってくる。


ビルのあるものは傾いたり押し出されたり、外壁をすべて剥ぎ取られたりしたシーンをたくさん見た。今回の津波のパワーは、戦争の爆撃でもこんなに小さく潰されることは無いのではと感じた、正直な感想でした。

2012年9月22日土曜日

宮城県の大きな気仙沼市の惨状


昨日はUPが出来なかったことをお詫びします。 
理由はサレジオ会の総会長が、日本にサレジオ会が入って75周年になるのでその記念事業に参加するため、彼の病気が快復されて最初の外国訪問で東京に来られたのでした。サレジオ会員が東京に集まったので私も参加したためです。

この写真は気仙沼の珍しい建物で1930年代だろうか、ヨーロッパでで流行のアールデコ調の建物で、一階が津波にすくわれたのだろうか倒壊してしまって2階が平行に落下し周囲は古い建物が密集していたのだろうか、土台を残して多くが津波に押しつぶされ、どこかに流れて行ったようだ。
その後ろにも1階が津波に流され屋根だけ下に落下した家屋がつぶれていた。

この津波で感じたことは
古い建物。安い予算の建造物はことごとく破壊され、高そうな、しっかりして大きな家、大きく新しい家は残っていた気がした。


この写真は当時は水がまだ配給でしか手に入らないで、ヘドロで汚れた長靴を洗うために、ご覧のような苦労をしていたのが記憶に残っていた。


外形は残っている家屋だが流されてきたのか、現地で押しつぶられたのだろうかは、定かではないが、すでに傾いた、いずれは解体が確実な家が残されていた。


この震災では目立って電柱が至る所に倒壊して横たわっているシーンが沢山見れれた。 この電柱には結構な鉄筋が入っているのだが、鉄筋に咥えの部分がないため、コンクリートが折れて鉄筋が簡単にコンクリートから抜け出すシーンを数多く見た。


江戸時代の名残だろうか、蔵の土壁がはがれて、重さには定評があるので津波にもどっしりと残り、倒壊は免れたようだ。 手前の家のように屋根を残し、下の部分をさらわれた住宅も結構目立っていた。


今回の震災で目立つのは、古い住宅はやはり、強烈な津波に逆らえず、倒壊した家屋が沢山現場に残されていた。


左の鉄筋コンクリートの建物は1階部の天井くらいまで倒壊して瓦礫となった住宅やその他の瓦礫がうずたかく取り残されて、中心には倉だろうかこれも大破した建物が大きな口を開いていた。


今回の津波で、日本建築のひどさを、どこでも見せつけられた。 ご覧のように鉄骨は残ったが、それに張り付いている、外壁がお粗末で、造りは薄っぺらで、強度を十分に持っていなかったようだ。少なくとも煉瓦くらいの厚みと重みがあると津波の威力を少しは制御出来たのではと、被災住宅を見ながら、感じた当時の感想だが。


被災地の比較的大きな町だから(釜石)鉄筋や鉄骨の建物が多く、他の町と違って、コンクリートの建物が多く残っていた。 しかし、町が古いので、その鉄筋、鉄骨コンクリートの破壊は免れることはできなかった。 釜石では近頃これらの、鉄筋、鉄骨の家を壊し始めていた。


これも大破した住宅だろうか瓦礫と一緒に津波に取り残されて無残なシーンを見せていた。住宅のどの部分が倒壊して流れ着いたのだろう?


この一角も店舗や住宅が瓦礫とともに密集し、これらを整理するには慎重さと丁寧な仕事を求められるので、結構時間を必要としていた。 全部を一気に重機で解決することもできるのだが、大切に財産の一部を含んでいるので、これらの決断が難しいと思う。


これは何がおわかりだろうか? 多分津波が押し込みそののちどちらかの開口部を作って海水が出て行ったと思う。 ご覧のようにブラインドもめちゃくちゃになってしまったようだ。


1か月後は車両や支援の手を輸送するために重要な幹線道路はいち早く瓦礫もどかされ、自動車やトラックが動き始めていた。 乗用車の被害はケタ違いで、この当時、4月の頭は渋滞もあまりなかった。 理由は遣いたくても動く乗用車を見つけるのが難しかったから。

2012年9月20日木曜日

2011年4月初旬 気仙沼の惨状



これは気仙沼の大川の一部でここだけガレキが集中して川の中に流れ込んだ様相を見せていた。
多分、推測だが、引き波の時にここに集中して海水が海に戻って行った時の道ではないかと考えた。 理由はあまりにも川の橋のそばでガレキが集中してびっくりしたところだ。
まるで、焼却場の釜の入口のようになんでも投げ込まれていた。


どこから流れ着いたのだろう、土台から引きちぎれた住宅が河川敷のがれきの中に住宅があったのもびっくりした。左の住宅のそばに小さな軽自動車がみえるのだが、左の住宅もかなりの大きさを推測することが出来る。


今朝ボランティアにはいった後ろの空き地にはご覧のようにいろいろなものが押し寄せていた。


これは何かお分かりだろうか? 気仙沼漁港の市場に入っただろう、一匹のカジキマグロがヘドロの中に突き刺さっていたこれも驚きだ。


もっと驚くことは、この亀の甲羅のひび割れは、ヘドロだ。 理由は大きな漁港には今まで海中投棄された沈殿物が懐中で腐敗し、ヘドロを作り、今回の津波で攪拌されたものが人間の仕業として返球されたと考えたい。 当然今後はこのような反省と再度起こらないような考察と実行が求められる。


これは、乾燥したヘドロがひび割れた状態だ。これと全く同じ現象は石巻のヘドロだ。 原因は大きな人口、そして大きな港周囲に海産物の倉庫そしてこれらから出された廃棄物が港周辺にヘドロ層を海中に作っていたと思われる。


これは、魚の切り身も流れ着いていた。 ヘドロの悪臭もひどいもので、魚市場の腐った匂いと漁船の廃油の混ざった匂いが鼻をつく。


道路はご覧のようにヘドロと家財道具の廃棄するためのやまだ。 


この頃見つかったアルバムはどれほど傷んでいなく、大槌町で写真洗浄では、写真の劣化したものが多く、再生の苦労していたのでこの写真とは比べられない。 この写真もどこからか流れ着いた大切な写真だろう。


ボランティアの休みに近くを見て回ったらいろいろなものがとなりの空き地にたくさん流れ付いていた。屋根を支えていただろう構造物も分解してながれついていた。


気仙沼はサンマで有名な港で、日本でも1、2位に当たるほどの水揚げがあるので、当然港の倉庫にはたくさんの保存さんまがあったろう。 これが流れ着いたサンマでいたるところに見ることができた。


このようにさんまがヘドロにまみれいたるところで散乱していた。


聞く話によると津波が引いた後は、自分の家がサンマの大群に取り巻かれていたと。これが臭くて大変だった



ご覧のようにまとまって流れ付いていた魚もあり、多分冷凍で固まっていたものが流され、それが解凍する前にここで固定してしまったらしい。


今朝から入っているボランティアの人達とこの家のご夫婦だ。 ご主人は誰のから助けも受けずに必死で働かれたらしい。 ついに自分だけではできなくなったので、ボランティアの噂を聞いて、お願い下らしい。