2012年9月22日土曜日

宮城県の大きな気仙沼市の惨状


昨日はUPが出来なかったことをお詫びします。 
理由はサレジオ会の総会長が、日本にサレジオ会が入って75周年になるのでその記念事業に参加するため、彼の病気が快復されて最初の外国訪問で東京に来られたのでした。サレジオ会員が東京に集まったので私も参加したためです。

この写真は気仙沼の珍しい建物で1930年代だろうか、ヨーロッパでで流行のアールデコ調の建物で、一階が津波にすくわれたのだろうか倒壊してしまって2階が平行に落下し周囲は古い建物が密集していたのだろうか、土台を残して多くが津波に押しつぶされ、どこかに流れて行ったようだ。
その後ろにも1階が津波に流され屋根だけ下に落下した家屋がつぶれていた。

この津波で感じたことは
古い建物。安い予算の建造物はことごとく破壊され、高そうな、しっかりして大きな家、大きく新しい家は残っていた気がした。


この写真は当時は水がまだ配給でしか手に入らないで、ヘドロで汚れた長靴を洗うために、ご覧のような苦労をしていたのが記憶に残っていた。


外形は残っている家屋だが流されてきたのか、現地で押しつぶられたのだろうかは、定かではないが、すでに傾いた、いずれは解体が確実な家が残されていた。


この震災では目立って電柱が至る所に倒壊して横たわっているシーンが沢山見れれた。 この電柱には結構な鉄筋が入っているのだが、鉄筋に咥えの部分がないため、コンクリートが折れて鉄筋が簡単にコンクリートから抜け出すシーンを数多く見た。


江戸時代の名残だろうか、蔵の土壁がはがれて、重さには定評があるので津波にもどっしりと残り、倒壊は免れたようだ。 手前の家のように屋根を残し、下の部分をさらわれた住宅も結構目立っていた。


今回の震災で目立つのは、古い住宅はやはり、強烈な津波に逆らえず、倒壊した家屋が沢山現場に残されていた。


左の鉄筋コンクリートの建物は1階部の天井くらいまで倒壊して瓦礫となった住宅やその他の瓦礫がうずたかく取り残されて、中心には倉だろうかこれも大破した建物が大きな口を開いていた。


今回の津波で、日本建築のひどさを、どこでも見せつけられた。 ご覧のように鉄骨は残ったが、それに張り付いている、外壁がお粗末で、造りは薄っぺらで、強度を十分に持っていなかったようだ。少なくとも煉瓦くらいの厚みと重みがあると津波の威力を少しは制御出来たのではと、被災住宅を見ながら、感じた当時の感想だが。


被災地の比較的大きな町だから(釜石)鉄筋や鉄骨の建物が多く、他の町と違って、コンクリートの建物が多く残っていた。 しかし、町が古いので、その鉄筋、鉄骨コンクリートの破壊は免れることはできなかった。 釜石では近頃これらの、鉄筋、鉄骨の家を壊し始めていた。


これも大破した住宅だろうか瓦礫と一緒に津波に取り残されて無残なシーンを見せていた。住宅のどの部分が倒壊して流れ着いたのだろう?


この一角も店舗や住宅が瓦礫とともに密集し、これらを整理するには慎重さと丁寧な仕事を求められるので、結構時間を必要としていた。 全部を一気に重機で解決することもできるのだが、大切に財産の一部を含んでいるので、これらの決断が難しいと思う。


これは何がおわかりだろうか? 多分津波が押し込みそののちどちらかの開口部を作って海水が出て行ったと思う。 ご覧のようにブラインドもめちゃくちゃになってしまったようだ。


1か月後は車両や支援の手を輸送するために重要な幹線道路はいち早く瓦礫もどかされ、自動車やトラックが動き始めていた。 乗用車の被害はケタ違いで、この当時、4月の頭は渋滞もあまりなかった。 理由は遣いたくても動く乗用車を見つけるのが難しかったから。

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