2012年9月5日水曜日

2011年4月6日 仙台から気仙沼に移動


 どの当たりだろう?目に飛び込んで来た被災シーンは数多かったと記憶している。
南三陸町前かその後の場所かは定かではないが、いたるところに異常な光景がさらされていてほとんど手をつけられない状態だった。 仕事は多分支援物資や必要なものの輸送がとどこうることなく行われるのが目的で国道45号線を中心に、がれきの撤去がメインで行われたと感じた。 そんな中であるところでは街に入ることができず、道を探して気仙沼にアプローチした。
現在走っているシーンは国道45号線だと記憶している。
これは国道をはさんだ空き地、市街地、畑、空き地に押し寄せられた被災したありとあらゆる品々、建物、車、その他のものが集積していた。
これは多分空き地に押し込んで来たがれきの山だろう。


想像することが難しい建造物だ。その中に横倒しになった軽自動車らしきものが入り込んでいる。手前には破壊されたコンクリートや小石が一緒に流れ着いた。


国道に通じる小さな道も同時にがれきの撤去が進行し、小さな重機が活躍していた。被災地のどの場所にも重機が必要と分かっても、十分に配給されずほそぼそと動いていたが、それらの少ない機械でもしっかり働き結果を出していた。


流れ着いたがれきか、一時的に集められたガレキかは定かではないが、津波によって粉々になった日本の建造物だ。 これほど建物が弱いのか、建築した会社がひどいのか? それ以上に津波の威力をまざまざと見せつけられた。


これは段々畑か、空き地か定かではないが、津波が上から来たのかしたから上がって来たのか分からない土地だが、確かに津波の入った形跡が残っていた。


3月11日以降数ヶ月はこのようなシーンが国道沿いは続いた。自治体のゴミ収集車が働けなく、がれきの集積場が決まらないために放棄されたゴミがうず高く残された。 それでも被災した方々もゴミの収集がしやすいようにしっかり国道のそばに集めるのも、日本国民の気配りが見られた。


 上の写真の左は津波が襲い、残ったものは土台のコンクリードだけで、その前には綺麗にまとめられた、家財道具だろうか、廃棄するのか、再度使うのか迷った末の整理のようだ。


車窓から撮影した国道と道の交差点には、ガードマンが付いて仕事がスムーズ に進行できるよう早速働き始めていた。 奥には破壊された集落や、押し流されたガレキが自動車等がいたるところに見られた。


このガレキが詰まったところはありとあらゆるものが押し流され、壊れた家屋や樹木が一緒に津波で流され、それにぶつかったものを次々に破壊して内陸部を襲った。そんながれきの中に乗用車も数多く含まれていた。 電柱は折れ曲がりなかに入っている鉄筋がコンクリートから抜け出す現象を数多く見ることができ、電柱ももろいのだなーと実感した。


電柱だろうか安定のために付けられたコンクリートも虚しく、抜け落ちて流された。手前は畑だろうかガレキが抵抗なく津波に押し流され奥の集落まで到達して破壊してしまったようだ。


 この写真の一段低い場所に位置した家屋は1、2階ともに津波が入り辛くも外側が残ったようだ。その上の緑の屋根の家屋も津波が入り周囲の建物を破壊しているようだ。 その上は最終到達点に近いせいか建物の破壊は免れたようだ。


手前にあった家屋は室内の床と土台を残して津波ですべて流されたようで、この家が流されて、次の家にぶつかり、次々と破壊力をガレキが作り集落を潰していったようだ。


 ここにも電柱が倒れその上にガレキが積み重なって、家屋の屋根のスレートだろうか、壁面だろうかグニャグニャになったトタンが津波の力を見せていた。 奥には下から運ばれた家屋か、上から落下したものか定かではないが天地の逆さまになった住宅が無残に転がっていた。


津波の押し上がた斜面のいたるところにガレキが取り残され被災地の悲惨な状態が散在していた。 被災地に入って見ないと状況を推測するのは不可能だとわかった。


 津波の威力は木造住宅など根こそぎはがし、動かして移動させている。この写真は家屋が天地逆にしたのかそれとも屋根の瓦が全部落ちたのか分かりにくいが、異様な光景だ。前には電柱が倒れその右後ろにはさびた鉄骨まで流れ着いたようだ。


 この写真の電柱は完全に折れて鉄筋も切断して流されたようだ。 ここにもいろいろなガレキが流れ着き取り残されている。電子レンジだろうか?


この住宅跡は土台とその家の木製の床のみが残され、その他の部分にはガレキが残され、その後ろはどこまで津波が駆け上がったのだろう?右側は斜面が壊れてしまったようだ。


大きな空き地は元畑か水田かその少し後ろは小高い丘がありその周辺に集落が形成されていたようだが、どれくらい残ったのだろうか?

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