未曽有の被害をもたらした東日本大震災から11日で2年を迎える。「あの日を決して忘れない。後世に伝える」。被災地では震災の体験を語り継ぐ「語り部」の活動が広がり、記憶をつなぐ本も出版された。被災者たちはそれぞれのつらい「記憶」と向き合っている。
■悲劇も美談も 語り部の葛藤
■あの日の記憶 忘れられるの怖い
東日本大震災の体験を語り継ぐ「語り部」たちは「悲劇を風化させてはならない」との思いを深める一方で、遺族からは「苦しみを忘れたい」という声も少なくない。被災地では「あの日の記憶」をめぐる葛藤が、今もなお続いている。
宮城県南三陸町の浜に残された赤い骨組みだけとなった防災庁舎の下で、「語り部」の鴻巣(こうのす)修治さん(67)が語り始めた。
「防災無線で淡々と避難を呼びかけた若い女性職員の声が忘れられません…」
庁舎を見上げる10人ほどの観光客の目に涙が浮かんだ。震災前、観光ガイドだった鴻巣さんは震災の後、11人の仲間とともに観光客に被災体験を語り継ぐ「語り部」を始め、これまで3万5000人以上に「あの日の記憶」を伝えてきた。
南三陸を皮切りに、観光ガイドや市民団体などによる語り部が沿岸部の被災地で相次いで立ち上がった。気仙沼、石巻、岩手県の宮古、陸前高田…。いずれも明治と昭和の2度の三陸地震で繰り返し津波に襲われた歴史を持つ土地だ。
このスケッチも気仙沼の港近くにある水産加工場だろう港方面から押し寄せた当日の津波はこの加工場に押し寄せ外壁を壊し、建物内に侵入し、その後引き波が再度外壁を外側におしまげ海に戻った様子が推測出来る。
今日は2013年3月11日
2011年3月11日 東日本大震災を思い出す。
自分は午後3時頃浜松にいた
午後銀行でATMの機械で金銭を扱っていた
突然めまいを感じ、何かおかしいなと感じたものだ。 数日前酷い目眩に襲われ、朝起きるとき大変苦労し、あまり異常だったので医者に行くことにした。
その時の診断が自分の三半規管が、宇宙の重力を感じる部分のバランスが崩れていると診断され、改善するには首の運動をしなさいと言われて、対した処方はしてもらえなかったことを覚えている。 従ってまたその病気が出たのかな?と推測したが、 後ろで地震だと声がしてびっくりしたのを覚えている。
その頃の地震の情報では長周期地震というものを新聞で見た記憶が数件あったと記憶している。 この時の地震は通常のズシンと来る、地震ではなく、ユサユサと揺さぶられ、何か船酔いするような気配だったと記憶している。 変な地震だなーと思い、仕事を済ませ浜松の支部に戻った。
すでにテレビはつけられ、地震の情報が流れ始めていた。 最初は東京で火災が起きているからだったと思う。 その後大津波警報が出され三陸地図に赤い線が描かれ大津波が来るからと警報がなっていた。
その後はヘリコプターからの次時刻刻の映像が流れ始め、東日本大震災の始まりだった。
これらの写真は4月12日の早朝に移し始めたもので、陸前高田の気仙地区は川のこちらで、高田の中心街は川の向こう側で大きなスペースだ。 川を遡上した津波は規模があまりにも大きく水門は簡単に上回り大量の海水が押し寄せた。 そして中心街も気仙地区も破壊していった。
びっくりしたのは誰もいないこの気仙地区の高台で四人の人々が生活されていたことだ。 早速上にあがり、様子を伺った。 幸い水やその他の支援物資を持っていたのでお分けした。 朝食どうぞと勧められたのでご一緒した。 ありがたかった。 その後お友達になることができ、何回か訪問させていただいた。
これは幸い被災しなかった熊谷さんの軽自動車で早速動き回られていた。 ご主人は宮大工さんで、その他の民家の建築等を長年されていて沢山気仙地区に残されたようだがほとんど流されてしまったと。伺った。
山のそばに打ち上げられた軽自動車。 海から破壊された民家やその他のガレキが数多く山際に取り残された。
すでに4月12日には復興第一仮設住宅をご自分と息子さんそして孫の方で建設し始めておられた。
大工さんだから、道具と材料があると何とかできるのだがと話し、内陸ぶまで材料を調達に出られたようだ。
これが彼らの生活するためのテーブルでした。 一ヶ月は被災地を回って自分の工具や大工道具、機械類を探して回ったそうで、いろいろその場に野積してあった。
朝食後熊谷さんご一家の写真を撮らせていただいた。 赤いジャンパーは奥様、熊谷さん、息子さん(配管工)お孫さん
気仙地区も壊滅ではあったが、外形の残る建物はどこからか流された住宅が悲惨な姿て取り残されていた。
熊谷さんが100年は持つと自信の作品も流されてしまって、ご覧のガレキになってしまった。 この高台からの写真はこの街のお寺で、この生活空間として住宅をつい1年前に建てた荘だ。
自分も何も気にせず撮影したものがこの建物で、あの強力な津波が押し崩していった、気仙地区で、目立った住宅があって、撮影したものが、後の話で熊谷さんが設計し建築した建物だと知らされた。
壊滅した気仙地区の中であまり傷もつかずにただ流された真新しい建物が目について撮影したのだが。 宮大工さんだから基本的には釘を使わないで建築するらしい。 その後だが、自分たちの生活の場からいつも見えるこの建物を昨年撤去したと聞かされた。
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