このスケッチは気仙沼の一番ひどい被災地の中で解体、更地化されているところの小さなコンクリートの建物だ。 大きさ街の中にあるものでは交番の可能性があるかな? このようなしっかりした小さなコンクリートも巨大な津波のパワーには耐え切れず、大部分は破壊され、現在は解体中である。
南三陸町の総合グラウンドがあり大きな体育館のあるところが防災拠点となり、ボランティアの受け入れ、そして遠路はるばるイスラエルから来ていただいた医療部隊の朝の朝礼風景です。
イスラエル軍の医療部隊で被災地特に県立志津川病院が壊滅したので大いに助けれれたと感じ、感謝したい気持ちになりました。
このグラウンドには多くのボランティアの方々も集散し南三陸町の被災地を目の当たりに見て、自分たちも何か行動を起こさなkればと動かされた場所でした。
これはまた少し戻りますが陸前高田の2011年4月12日で被災して1ヶ月、被災地はまだ、津波の海水が引けずに残っていたところ。 乗用車も撤去できず放置されたままです。
海の近くの大きな施設ですが、ご覧のように壊滅的なダメージを受けています。 多くの鉄骨コンクリートは簡単なプレキャストパネルで外壁を作っているので巨大な津波のパワーには耐え切れませんでした。
広大な更地のようになってしまった被災地の中に流れ着いた小さな漁船です。
どこから津波に押し流されて来たのだろうか、住宅の屋根の一部も、階下は破壊され、屋根の瓦は津波に流されるあいだに落下してしまい、このような形状しか残っていなかった。
海のすぐ近くの市民球場のようだ。照明器具しか残っていなかったこの球場は地盤沈下も激しく、グラウンドはまだ海水につかっていた。 ここは球場の手前の敷地だ。
海岸縁りのアパート4階まで津波に覆われ、いかに今回の地震の津波が巨大だったことが残された証拠だ。
ここは例の市民球場前の敷地だが、多分津波が引いて行った時に多くのがれきを海中に引きずり込んだのだが、最後はこのように海水が引いてしまって、敷地に残された破壊の残骸だ。
このような住宅も残されていました。 1階から引き剥がされ、津波で流される途中で一階が壊れ、海水が引いたあとは2階が地上に残されてしまった。
手前のコンクリートは電柱だろう。 鉄筋も切断し、倒壊してしまった電柱。 巨大津波には電柱などひとたまりもなく破壊されてしまった。
屋根しか残らなかった住宅の残骸で全く使えるものでは無かった。 見渡す限り何も残っていません。 このあたりの周囲はどうなってしまったのだろう?
外版を剥ぎ取られた乗用車のフレームしか残っていませんでした。
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