ボランティアって何だろう。何の報酬も無い、きつい仕事をなぜ人々がするのだろう? 日本にボランティアが動き出したのは新潟沖のソビエトのタンカーが座礁し新潟県の海岸を汚染したのがきっかけで、日本にボランティアが動き出したと記憶している。
そして次は阪神大震災、この時、多くの若者、一般の人々が積極的に出て、阪神の震災からの復興の手助けしたと記憶している。 私はこのとき現役のデザイン教師で、震災のとき何が必要でどんなことをしたら人々を助けられるのだろう?と、卒業研究で5年生に課題をだし調査に行き、卒業研究で作らせたことを覚えている。その間にも小さな災害、海外ではフィリッピンの火山と土石流、そしてインドネシアの地震と津波、ハイチの地震を知ったが結果として何も動くことが出来なかった。
教師としてデザイナーを育て、しっかりした企業に就職させることを第一の目標にしていためだ。 サレジオ会はどうして災害のときに動かないのだろう、ボランティアくらい出せばよいのにと思うだけで、結果何も出来なかったことを悔やんでいる。
今回も誰か動かないかなー、サレジオ会どうして動かない?、
2011年3月11日はすでに退職して支部も変わり浜松に移転していたのので動けるチャンスが出来始めていたようだ。 4月の頭に静岡の富士山グループがボランティアに出る、浜松に参加しないかと情報が入り、
早速浜松代表となり、当日は浜松の代表で車に乗り込む。 浜松、東京、仙台はかなりきつい旅程だ。3泊5日か4日は定かではないが、きつかった。 最初のボランティアの経験は、床はがし、ヘドロ掻き、次の日も同様な仕事だったと記憶している。仙台から気仙沼まで、仙台の小松神父と稲江さんに案内されて移動し南三陸町からその後の歌津や吉本町そして45号線の左右はガレキの山で域を飲む光景だった。なぜこんな天災が起きたのだろう? どうしてこんなガレキが、そしてヘドロの凄さを少しずつ知り始めた。
その気仙沼では2日しか働かなかったが良い体験をした。 一般の人の中に良いリーダーを見つけることが出来た。 運よく次の日もそのリーダーに会うことができご一緒に仕事をさせていただいた。 仕事場以外で声をかけることが出来、周囲につながりを作った。 前のお宅で働く中学生ぐらいの男の子とそしてその妹、叔母らしきひと、ボランティアの存在を教えて手伝いを頼むことを勧めた。 休みのときに覗いたジム、その中で黙々と働く若い一人のオーナー話をすることが出来た。一人にはきつい仕事でボランティアを教え、手伝いを頼むように頼み、電話をしたが、企業は基本的には手伝わない。 それほど個人宅が被害を沢山受けていたためだ。
気仙沼港の最初の新鮮なショックはこんなに大きな船でも、陸上に打ち上げられたことだ。 今だかった見たことの無いシーンだが、その後は陸上の船も珍しくなくなった。
気仙沼の観光桟橋の右は駐車場、そして左側は商店街や住宅地区だが倒壊や瓦礫の山に驚かされた数多くのシーンだ。 カメラはボランティアがメインなので、こんぱくとカメラに絞った。そのときの映像だ。
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