2013年1月23日水曜日

大船渡のヨットと気仙沼の震災後1ヶ月



このスケッチのヨットはすでに大船渡港に停泊して時折使われている気配がした。 週末にはヨットもでは入りして昨年の10月ではすでに1年以上経過していたので生活にもゆとり、あきらめの中にも生活を取り戻そうとする人々そして被災者の方々もすでに動き始めておられた。 このヨット自体はそれほど新しいものではないと推測できるが、震災で被災をした形跡はなかった。
ただ港はここも潮が満ちてくるといたるところが浸水し始め、地盤沈下の現象を見ることができた。


上の写真は2011年4月第1週で震災後1ヶ月だから、てもつかず、被災者はただ避難所で肩を寄せ合って震災の厳しさを肌身に感じていらしたようだ。庭木や生垣の樹木はすでに枯れはじめ、住宅は倒壊した家々が連なっていた。


政府は先の阪神大震災を経験していたためだろうか、まず援助のための道路を確保するために動き出し、元気のある人々は、家屋が残って入れば、中には入り整理したり、処分するための行動を起こした結果が道路周辺にガレキが積み重なり始めていた。


これも屋根だけ取り残されたのだろうか、しいて言えば津波で流されてきたものが引き潮の時途中で陸地に残ったのが正解だと推定できる。


自動車をはじめ家財道具がいたるところに氾濫していた。 倒壊してバラバラになった家屋から流れ出たであろうこれらの品々は海水に浸かったために二度と使えるものはなかったようだ。


このように狭い道でも車両が入りやすいように左右の空き地に家財道具やその他のガレキがうず高く集められてヘドロと相まって悪臭を放っていた。


これはボランティアの泊まったところから早朝歩いて港に出るため、高台から見た最初の気仙沼港のシーンだと記憶している。


今回の津波では自動車がいたるところでこのようなシーンで止まっているのを目撃した。 自動車は密閉していると重いエンジンルームを下に海水に浮かんで流れたのである。


ボロボロになった障子だがよくこれだけであの強い津波に耐えたものだと感心して撮影した。 多分津波の押す力はこのあたりが限界で、ただ海水だけがあふれて行ったのかなーと推測した。


気仙沼の震災当時、高台から撮影されたシーンを思いだし、このあたりから撮影されたのかな?と考え港町を眺めていた。


この高台はネットが張ってあり落ちないようになっていたが、冬の枯れ草がかなり押しつぶされ、避難した人々が津波を見ていたのだろうと感じた。


これは港に入って、街路灯の水銀燈がグニャグニャに曲がって折れていたのを見ると海に直面するあたりは長時間にわたって来る波、引く波で翻弄されただろうと、推測できた。

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