2012年3月11日に起きた東日本大震災を長く記憶するためにパソコン上で何なできないかと考え、ボランティア期間中に時間のある時に記録した写真を掲示したいと考えて、今後できるだけお見せしたいと考えて動き始めました。
今日の写真は震災後4月の初めに、浜松教会からボランティアに参加するとの動きがあり、最初に参加しました。 最初は写真を撮ることに少し問題があるかな?との気持ちがあり、普段使うデジタル一眼レフは持参しなかったので写真が画質は少し低いと思うが、それはあまり皆さんにはわからないことだろう。
これらの写真はパナソニックのLumixで撮影し、仙台にはいった後、ボランティアを指示された場所はまだ、借りたすジャパンさえ、ベースのない気仙沼だった。仙台から、およそ150kmほど離れている地域で、仙台教区の小松神父、カリタスジャパンの稲江さんに案内され国道45号線を北上した。
東北道(高速道路) で北上することもできたのだが、被災地を通過する国道45号線の選択は、ボランティアに入るための準備をさせてくれた。
これらの写真は移動したバスから写したもので、いろいろ障害物も入っているのもお許し下さい。
これはどのあたりだろう?国道をはさんで右側から津波が入り、大きな被害を出し、国道45号線を乗り越えて左側にもガレキが散乱していた。
道路はごらんのように国道を開くための作業が行われ、車の渋滞は被災地に向かう作業車やその他の車でごった返していた。
目に飛び込んでくる被災地はショッキングなシーンが多く、どのようにしてこんな結果が出たのだろう、どうしたら復興ができるのだろう?と単純な考えが 襲ってくる・・・・・
少しクローズアップすると、ありとあらゆるガレキがいたるところに取り残されていた。 倒壊した家屋のそばに粉々ないなった生活用品や家屋の残骸が取り残され、ほぼ完全に外側は乾燥しているので、津波を想像することはできなかった。
国道では左側に小型重機ががれきや、土砂をトラックに積んでいるので渋滞が引き起こされていた。
震災からまだ1ヶ月過ぎてはいないが、17年前だろうか阪神淡路大震災の時と比べると、交通渋滞はあまり感じなかった。 こちらのほうが入りやすいなと感じることができた。 しかし渋滞は続いています。
これはフロントガラスを通して写したもので右側に橋脚だろうか取り残されているものがあり、多分鉄橋部分が崩落したらしいことを察することができた。
この白いガードは通常は道路と歩道を区分する手すりだろうが右側から入ってきた津波に押し曲げられて取り残されたようだ。
前の車は仙台教区の 案内の車か? 渋滞しているので、周囲の写真を撮ることは比較的楽だっと思い出している。 トラック左側の斜面はガレキが散乱しそこまで津波が押上げたのが推測できる。
これは道路を開くためにまとめられたのか? ガレキがうずたかく積み上がっていて、今回の東日本大震災の津波の凄さを気仙沼に着くまで感じさせられた。
このようなシーンは今後いたるところに見ることができる。 柱や屋根は運良く残った木造の家屋は道路にうず高く畳が積み上げられ、今後このようなシーンはすべて廃棄処分される畳だとわかった。
このあたりはガレキが道路脇に廃棄されているが、ヘドロが入っていないのは南三陸町あたりかな?と推測できる。道路脇に出ているものはすべて廃棄物で、廃棄処分の車がくるのを待っている。これから何ヶ月後に廃棄されたのだろう?
がれきのそばには、海が近いことを示す、漁船が打ち上げられているのもショックだった。 FRPで出来上がっている現代の漁船も船底に穴があいたり、壊れたものを沢山見ることになる。
森の中にもたくさんのガレキがが押し込まれていた。
左上は何だろう?バスの車体か、家屋のそばに横転したバスが取り残されていた。 津波でどこから押し流されてきたのだろう?
建造物にガレキが押し込まれ後ろにもありとあらゆるガレキが詰まっているようだ。
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