2012年7月27日金曜日
遠野市 大工町
城下町としての遠野 [編集]
徳川家康に臣従し、盛岡藩を成立させた南部利直は領内の基盤整備に取り掛かった。
それまで遠野を領有していた阿曽沼氏や鱒沢氏を追放し、根城南部氏の八戸直義を転封させて仙台藩領と隣接する遠野の統治にあたらせた。
1627年(寛永4年)、直義は遠野鍋倉城主として12,500石を与えられた。以後明治維新までの約240年間の間、
遠野は遠野南部氏の城下町として存続していくこととなる。歴代当主は盛岡藩御三家の一つとして盛岡に常駐していたため、
実際の政務は鍋倉城代である重鎮の家老達により行われていた。現在も穀町、大工町、材木町、六日町という地名に城下町の名残を見ることができる。(ウィキペディア)
ここが遠野では町並みが統一され、国が定めた重要伝統的建造物指定ではないのに驚いた。綺麗に統一された町並みで、歴史が無いのが指定ではずれているのかもしれない。 そういえば長野県の小布施町がそのようだ
規制された街造りは日本では珍しい。自由気ままに建築されているのが日本の問題で街並みを壊しているのが自由だと感じている。 たぶん前にも書いたのが壁の色がベジュで統一されているようだ。あるいはこれに近い色のために落ち着いた街並みが出来上がっている
この家はベージュではないが木材の色が出ているので、許可が出たのかもしれない。 長野の小布施町に似ていると感じた。
ベージュと木材の肌色がメインで、秋田県の角館が木材の色を使い、塗装は黒に近い低明度の色が使われ、江戸時代の武家屋敷がメインで残っている。 ここ遠野は新しい家を作るときに条件があるようだ。
ここ大工町はこのように落ち着いた雰囲気が感じられる。土壁が効いているのかもしれない。 土壁と言えば京都の美山もべんがらと茶色が主流の茅葺も集落でここも重要伝統的建造物指定を受けていた。
上の家屋のように格子がはめられた街並みが多く指定を受けている。 この街では格子はあまりないが、少し昔は下のガラスの前には格子が入っていたのかもしれない。
この一角は昔の城下町で大工町と呼ばれていたらしい、記念の碑が残されていた。1600年代の記述はあったがどう見ても1600年代の建物は残っていなかった。
雰囲気の良い家が立ち並び、今回津波でやられた沿岸地方の参考になる街並みだと思うがいかがだろう?
街並みとあまり関係ないが、東京で次のオリンピックを狙うらしく、メインスタジアムの構想が出ていた。数千億の予算で作り直すらしい。 建築家の安藤忠雄さんが仕切るらしい。 よいことだ。世界に向けてのコンペこれも賛成だ。 しかしあまりにも賞金が安すぎないか? よい建築家にやってもらいたければ1,2億位は出しても惜しくないのでは? 自分はサンチャゴ・カラトラバがやってほしい。条件も十分に当てはまる有能な建築家だ。 アテネオリンピックのメイン会場を手掛けている人だ。 ケチなコンペだこんなので世界の建築家が参加して食えるかな?
被災地の街造り、これもコンパクトな街造りをs世界の建築家に向かったアイディアを出すの呼びかけてほしい。 賞金も2,3億円くらい出せば応募してもらえると思うが。 このようなアイディアがまだ聞かれないのも残念な復興だ。 どうしてくれるのだろう?
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