2011年7月9日土曜日

女川ビルの転倒



女川のビル転倒はいくつだろう? これもその一つで、設計者は転倒するなど何も考えは無かっただろう。 なぜ転倒した? 
推測だがあまり考えることなく、住宅設計の延長のような土台の作り方、パイロンを打ち込むことなく、容易に石を敷き詰めその上にコンクリートを流し込んだ、安易な設計のように見える。

聖書にあるように砂の上に家を作るな、しっかりした家は岩の上に建てなさいといわれている通りだ。 多分女川港も港に近く、ひょっとしたら埋め立てて整地したのかも、定かではないが、砂の多い土地に建てたビルは強い力が加わることにより転倒を起こしたようだ。今回は随所に建築家の手抜き、そして建築業者の『だまし、いい加減さが目立つ』紙のように薄い建築材料でよく日本の家を建てたものだ、責任を撮って欲しい。 こんないい加減な業者に仕事を任すべきではない。 震災の家屋をしっかり見て悪い業者には仕事を任せるべきではない。と感じている。

アメリカの建築家、フランク・ロイド・ライトは日本の帝国ホテルを設計する際に日本には地震が多く、関東ローム層はやわらかくその対策として杭を沢山打ち込んでその上に帝国ホテルの本体を乗せたようだ。そして日本は地震が多いので瓦屋根は絶対にだめで、その対抗処置として銅版で屋根を葺くことにした(これは日本の伝統的な寺社建築に使われていて年限を重ねることで、緑青が発生し美しい色に変化して行くことを狙った)。同時に建築材は軽くてやわらかい、日本産の大谷石を採用したようだ。
このような地震を知りその対策を随所に盛り込んだ設計は1923年の関東大震災に耐え、多くの家屋が壊滅的なダメージを受けたのだが、ライトの設計した帝国ホテルは震災に耐え見事生き延びたのが有名だ。
建築設計者よ、しっかり地震や津波から学び、まじめな設計をして欲しいものだ。 同時に設計者には住みやすい、安心して生活の出来る新しい日本を設計して欲しいものだ。それが建築家に与えられた今後の国作りを任せたいものだ。
住みやすい立派な町を作ってくれ! 頼むよ。

2011年7月8日金曜日

南三陸町 歌津から尾崎神社に行く


今日は、南三陸町内に、久しぶりに入る。 
何が変わっているのだろうか? ガレキは少なくなり見晴らしがよくなっているのには気がつく。 それを感じながら、歌津町に向かう。 見覚えのある入り江の角の展望レストランだろうか? 赤い鉄骨がまだコンクリートボードの間から見え隠れする。 海面の上に鉄道があり陸地側は鉄路が地面の落ち、海上の高架部は多数落下し、橋脚しか残っていない哀れな姿を見せている。そこを通過し林さんが目指す、ローソンを目指し、交差点を右折する。 そこから歌津尾崎の半島の先端に向かってドライブする。 景色は被災しているところは同じ破壊のシーンであまり変わらない。 小さないろいろな入り江が破壊され、家屋はガレキのままに残っているのが目立つ。何箇所も同じような被災地を通過しながら半島の先端尾崎にたどり着き、林さんの義理の母の実家に到着する。 11時ごろ着いただろうか。
林さんの幼いころの家族の話、慕っていたお姉様が三陸町で亡くなられ、そのショックを隠すことは出来ず、時折涙を流されたり、写真を撮影するのに反応され、その他親族の方々が数人お亡くなりになっていらっしゃるので、私自身、そちらのほうに案内するのはためらい、
偶然以前林さんの知っておられる、榎本神父様もこちらに来られ、石巻方面を訪問するからと声をかけたら林さん南三陸地方に行くことをOKを出され、その後南三陸地方の実家に連絡され、朝から訪問することに決定したわけです。

最初ご家族のの印象はやはり元気をなくされた感じがし、話の合間合間にボーットされる場面があり、ショックは大きいなと感じた次第です。 隣室にそのお写真が仏壇にあり、神父様が同席してくださっていたのでお祈りもささげていただいた。

このような震災の中でもおもてなしの心は変わらず、お昼をご馳走させてくださった。 いろいろ食生活もお尋ねし、心では何かご援助できないか探りをいれ、お食事を出され皆さんご一緒に食事をしたのだが、やはり大変貧しい生活を強いられているのを実感させていただいた。 何を支援したらよいのかも知ることが出来、訪問の成果は上がったと思う。

2011年7月7日木曜日

七ヶ浜で最初に仲良くなった魚の仲買さん

多分, 自分の記憶では5月初旬だろう七が浜にきだして3回目だろうか、港の小屋の上に小型のヨットがバランスよく鎮座していたので写真をよく撮ったものだ。 そんな中でどなたか港の小屋のほうから歩いてこられた。どちらが先か定かではないが声をかけあい、少しお話をしたと記憶している。
震災の当日自分は津波を逃れるために仕事場のビルに逃げたこと。そこビルの前の自宅が津波に飲まれ、沈んでいったこと。それまで明るく笑って話してこられ、しかし実家が目の前で消えていったときには『さすが涙が出た』と笑い飛ばされた。凄い人だと感じた。 
自分は今までこの海からすべてもらってきたので『家が無くなったが何もうらんではいない』『しかし自然には絶対に負けないぞ!』とこの廃墟の中でただ一人だけ働いておられたのが印象に残った。 何か支援してあげないとと強く感じたのを覚えている。 その後このご家庭が何を望まれているかは伺えず、自分で想像して何かまとめて持っていったことを覚えている。その後七が浜に来ると注意してみたり、挨拶したり、お話に行ったり、支援物資を差し入れたりの関係が続いている。一時期この店が閉まり人影が見えず心配したこともあったが、その後姿を見ると何か安心し、6月1日がこの海の解禁でそれを目指してがんばるんだと息子さんとがんばる姿に力をもらい。先日久しぶりに姿を見たので話しによった。相手も『心配されていたようで、久しぶりね、もう帰ったのかと考えておられたらしい。』うれしいことだ。

話していくうちにここはハエと蚊が多く困っている
それならと昨日支援の物資を少し買い、今まで考えて買っていた『蚊取り線香』も持ってゆこう、で今日午前中に届けた。お店は壊れてはいるが、ご子息と働いていた成果が出ていた。大型の冷蔵庫も入り水槽がいくつも用意され海水が入っていた。見せてもらうとなんと生きた『ヒラメやカレイ』『その他の生きた魚が泳いでいた』見事立ち直って、仕事を再開しておられた。凄いの一言に尽きる。
奥さんもその中で机を持ち込み忙しそうに筆記したり、多分電話での注文を受けておられるのだろうと推測できた。この家族は皆明るくすばらしい。 最初に言われたとき、写真撮るならこのベランダから撮ったらいいと招待された。そのときは遠慮したが。 今日奥さんに一番喜んでもらったのはやはり『蚊取り線香』だった。 大きいパッケージをいくつか買って車に入れておいたのが重宝した。
最後にお礼をいただいた『これ、もって行きな!』と『大きく見事なカレー』を一匹いただいた感激だ!『壁、直らないね!』うん!『お上が最優先だからいつになるか分からない。』

今からもこの家族の復興を見守りたいものだ。 まだ名前は聞いていないが。

カレーは今夜ボランティアの方々のおなかの中にうまく納まった。 菅原さんが大きな魚を見事裁いていただいて。助かりました。本当にありがとう。

2011年7月6日水曜日

浦戸諸島の桂島担当 中井さんに少しお話できた。 
桂島の民宿の活用とボランティアの受け入れを実施すると両方が活性化し進展が見られると思うが、今年の夏に実行できるかが問題だ。中井さんにも桂島の民宿を活用することの申し出もあるそうだし、今後開くボランティアセンターの上にも宿泊が出来ると話しておられた。 同時に民宿があることは食事を作る能力のある島民がいること、ボランティアを呼び込んで食事の準備をすることも出来る可能性があること。 後は浦戸の社共が実行することが出来るか、一途に彼らの決定いかんにかかわっている。
その後の話は浦戸のボランティアが幕張メッセで行われる復興支援のイベントに誘われており、その出品物をどうするか、宮城の物産を売るためにどうするかで、昨日は入った武田笹かまぼこさんを紹介し、近くの甘納豆屋さんの紹介と、白松が最中の店舗に強引にお願いし本社と交渉することには成功したが、期日が押し迫っているのがネックでその交渉の行方が心配だ。
その後カリタスジャパンを助けているシスターズリレーの新役員が視察に来られ、今後をどうするか、支援のあり方等について意見の交換をされた。 それなりに自分の意見を言うことは出来たし、今後どのように推移するかは定かではないが息の長い支援の必要なこと、ボランティアをバックにニーズの発掘と地域住民または被災者と仲良くする工夫をして欲しいこと等を申し上げた。その後、変わりつつある七ヶ浜を案内し、以前働かれたシスターはその変化を察知されたようだ。
ボランティアのために駐車場を無料で貸していただける三元木材店駐車場を綺麗に草取りをはじめ、着々と進行して行く様子が伺えた。


さすがにボランティア炎天下の中で4,5時間働くと帰りの船上はご覧のようにお疲れの様子がありありと見える。潮風に吹かれて1時間の船旅は癒してもらえる貴重なときだ。

昨日多賀城付近は雹が降った

仙台地方は昨夜から怪しい雲行きで、稲光、雷と激しい雨も軒先をたたいていく。今朝は少し雨が降ったが仕事に支障なく時間が過ぎてゆく。昨日の疲れか少しからだの動きが緩慢で・・・ 午後は頼まれていた精米と買い物でキッチンのための買い物をする。そのあたりから、雲行きが怪しくなり、真っ黒い雲が多賀城辺りを覆い始めた。突然、いやな音がし始め屋根や地面にビー玉クラスの雹が落ち始め同時に強烈な雨が降り始めた。 丁度精米中で何の影響も受けることなく、過ぎ去るのを待っていた。 その後雨も上がり現在は雲は多いが、青空が沢山見え梅雨の終わりか?と期待はするが果たしていつ雨が終わるのだろう。

塩竃ベースのカリタスジャパンは今日は少なく小さなグループで活動した。明日は『寒風沢』に入るとか? しかし修道女連盟の役員が来るのでその接待をしなければいけないようでもし渡るのならあきらめる必要ありだ。 一番綺麗にしやすい島だが、一番遅れてしまい申し訳なく感じている。


2011年7月4日月曜日

塩竃の武田笹かもぼこ店の駐車場

今日の仕事は今まで何回かお手伝いをした『笹かまぼこ』店の駐車場の仕上げを狙って入ったのだが、かなり進行しても完成は出来なかった。
私も一昨日に継ぎ、今日は体力でのお手伝いに入った。 最初に入って仕事を見て何が必要なのかを調べその後道具を探しに行き、効率よく仕事がはかどることを考えている。 震災から3ヶ月が経つのにまだヘドロはあり仕事はそのまま残っているのが塩竃だ。
仙台のセンターで軽自動車を借りているのはこんなところでしっかり役立っている。実際には浦戸諸島の『寒風沢』で活躍するはずだがまだ島には渡っていないのが現状だ。
今日の総勢は15人かな、平日この人数だと感謝だ。 おかげで思った以上にはかどり、その中にはシスター方が4人も参加してその働き振りにも感心したり、感謝したり。驚いています。
私はまだそこそこに体力もあるようで。軽自動車に土嚢袋を乗せ、集積場まで運転し、そこにおろすのが役目で、2台までは何とかこなしたが3台目、4台目にはさすがお手伝いを一人頼みおろしてもらいました(自分は何個おろしたのだろう?200個ぐらいかな?)。 自分でもそこそこにお手伝いできたかな?と感じています。その他草取り、その後の整地、おまけに帰ってからは4人で高齢者の住宅のお部屋の引っ越しのお手伝い、すべて充実した1日のようでした。 少し疲れ気味で寝たいのかな? 明日は力仕事はなし。

先日昔自分が高専で教えた同じ、高専だが、国立高専の女性が来られ、化学を専攻し、5年を終了し現在専攻科で勉強中の子が来られたので、ヘドロの研究を託した。実際にどのようになるかはかの女次第だが、昨日は、柴田神父様と彼女を案内して石巻、女川とお見せした。 石巻ではまだ残された家庭の床下にはこんなにひどいヘドロが横たわっているのです。
特に浦屋敷町、元屋敷町の残っている家屋の被害もひどくこのような写真の称すが想像できる。


実際にはこのようなヘドロが残された各家庭に入っているのが実情だ。こんなために家庭の支援が必要なのだがまだまだボランティアが足りないのが現状だ。

2011年7月1日金曜日

今日は桂島でのボランティア
久しぶりに天気に恵まれ桂島でボランティアをすることになった。 前の日にカインズホームで必要な材料を集め船に乗せ、作業工具とともに島に持ち込む。塩竃のマリンゲートから出て1時間弱で桂島に着く、海水は普段より少し濁っているのかな?と感じる。これはやはり津波の影響か、海水が攪拌されるだけで濁りが出るようで、同時に匂いもヘドロを感じさせるものがある。しかし学者によると地震、津波の翌年は豊漁になるらしい。それは人間が作った堆積物を陸地に返球したおかげで、海底の地形が綺麗になったためのようだ。
最初は自分ひとりで事務所の床を作る予定だったがボランティアの補助が入り、簡単に出来るはずだったのが、材料不足で完成は見られなかった。 その不足分はすでに本土に帰り、オナジカインズホームで材料を切って準備は整った。 桂島での仕事は完了できなかったが、ついで桂島の海水浴場に行き浜の清掃の手伝いをすることにした。
浜はかなり大きく、近頃は地元の人々は海水浴に桂島に行く人が増えていると聞いた。 出来れば今年にでも清掃が完了できればと考えるが、今年はボランティのこの人数では無理だろうし、海水の濁りでは海水浴も不可能だろう。
そんな中で、ボランティアを10数人導入して清掃にかかる。 今日はシスターも始めて参加してもらい、ボランティアの体験をしてもらった。が当日はあまりにも暑く、海岸の仕事はきつかったようで、軽い熱中症気味の症状がでて、心配した。しかし少し休んでいただいたおかげで大事には至らず、無事お仕事を終えてお帰りになった。
仕事は順調で大きな浜の清掃はまだ仕事半ばで終え、今後の追加仕事にゆだねることになっている。近々桂島に戻り浜の清掃と事務所の床の完成が待たれている。