忙しくしております。ブログが滞ております。お許しください。
今年はミニトマトを栽培し始めました。少ないですが、工夫して1本の木に100個実らせたいと、研究しています。 こんなことがあるから農業は面白いですよ。
これは川の先端の左側の低地、そして海の砂浜に立っていた宿泊施設でしょうか、土台をむき出しにされ毎日海水で洗われていた残ったわずか一軒の建物です。 もう撤去されたでしょうか?
ここは南三陸町に入るまえの半島の内側で川が一本海に流れ込み、それが津波を増幅させ入りやすかったと想像できます。 この一体もほぼ全滅で何も残っていなかったと記憶しています。場所が低かったためか、道路はバイパスがありそれはこの低い土地の部分を高架で通過しています。
震災の当日津波はこの高架の道路をも軽々と超えたようで、引き波の時になんと住宅がこの高架の道路上に3軒も置き去りにしていました。 写真では手前の道路の延長線上みえています。
この辺にあった住宅は全てガレキに化し、ご覧のように積み重なって平地に散乱していました。
高架の道路はこの自動車と比べるとわかると思いますがかなり高いところを走っていたのに完全に水没し津波が上を通過し、引き並みも同様に橋の上をながれてゆき、運悪く3軒が引っかかったようです。
住宅のあったところは完全に破壊され、ガレキとなってしまいました。自分の知る範囲で、この部分には一軒の住宅も残っていなかったと記憶しています。
向こうに川の堤防が見えると思います。 バイパスは一気に川と低地を通過するために高架を考えて作ったようですが、その上を通過した津波のパワーを想像することは簡単です。 高架の橋もいろいろなところでコンクリートの部分が欠落したり破壊され、未だにバイパスは復興されていません。 応急の国道45号線はこのしたを通過しています。
橋の上のガレキはこんな状態で、昨年のスケッチをした頃には道路の上のガレキは全て撤去されてはいましたが、本吉町と歌津も同じバイパスが落ちているので開通の目星はついていないと思います。
川のそばにあった住宅地は6mほどの津波が川に沿って遡上したの周囲の住宅は一瞬で破壊されていったと想像できます。 のおったものは土台とがれきでした。川の堤防もいたるところが決壊し畑も地盤沈下で水が溜まっているところも多かったと記憶しています。
これはどういうことでしょう? 橋脚ごと津波で押し流されたようです一部が決壊して落ちても常識ではつながりませんね? わかりません。
これは道路と鉄道が一緒に走っていたようです。 これはこちら側の盛土とコンクリートが合体する部分でそのジョイントの部分も大きなダメージを受けていました。
これはまなみ三陸町よりの盛土部分で鉄路も海から来た津波に押し流され大きく盛土から流されしたまで流れ落ちていました。
これはこちら側の川の堤防で、ざっくりと表面が刳られ、盛土が、土だけになっていました。海から駆け上がって来た津波が護岸に沿って遡上し、津波がはるか上の方から押し寄せたので一気の堤防は破壊されその勢いで住宅地は一瞬で破壊されて行ったようです。
これは東北では川の海に落ち込むところに水門がありその、コントロールをしていた建物のようですが、津波が沖の漁具やあみを押し流し、建物の上に置き去りにしていました。
入江ですから海産物加工の仕事場や、倉庫が会ったらしいですが、鉄骨では、ほとんど外壁を残すことんなく、裸にされた鉄骨が残っただけでした。
地盤沈下でしょうか、それとも津波でえぐられた低地が水浸しになっていました。
これは本吉町です。
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