これは石巻の南浜町で数軒残っていた住宅です。 屋根にはソーラーパネルが設置され、かなり新しい住宅だとわかるが、ご覧のように津波で破壊されていた2階の1m程は浸水したように感じた。 昨年10月に行った時は周囲の住宅も撤去され始めていた、すべたが更地になるのも時間の問題のようであった。
これは南三陸町の岬の先端、海のそばにあるアパートのようで津波の避難ビルに指定されていたと記憶している。 しかし津波は4階まで浸水し、津波が襲った時は恐怖だったと推測できた。4階までは窓は打ち破られ、漁具や住宅の破片、家財道具が散乱していたと思う。 津波の避難場所としては生き残っていたが、12年の10月に訪れた時にはすでに撤去されていた。
これは45号線の延長で大きなビルが残っていた場所だ。 左側には県立志津川病院があった場所で、しかし昨年の10月にはその志津川病院も撤去されていた。
ここは南三陸町の港のそばで、コンクリートの施設がまだかなり残っていたが、すべてが津波のダメージを大きく受け、その他の施設や住宅は壊滅的な被害を受けた町だ。
これは畑や住宅の散在していた場所だが、小高い場所の麓まで津波が押し寄せ地表を削って行った場所だ。
このあたりは最初に気仙沼に向かったとき最初の衝撃を受けたところで津波はこんなにパワーがありいろいろなものを押し流してきたものだと感じたところでした。
畑の中に散在していた住宅に津波が押し寄せ、破壊した住宅のがれきとともに大型バスまで押し流した現場を見たときの最初のショックでした。 横倒しになったバスが流され自分の家に傾いて止まったのを見た持ち主もびっくりしたことだろう。
津波の高さは破壊された家の場所で推測していました。 あるいは生活に慣れ始めたボランティアでは津波が残した海水の跡を探してどこまで来たのか証拠を探していました。
広い場所は畑だった可能性が大きく、鉄筋のビルは企業や自治体のビルなどで津波に耐えて残っていました。 破壊されたガレキが押し流され津波が引いた後に残されたガレキです。
国道を挟んだ被災地の4月でした。国道やその他の道路の復旧は比較的早く、以前の神戸の地震より復旧は早かったと思うが、その後の復興は遅々として進んでいません。
いち早く復旧し始めたのは電気のための電柱の新設が目立ったようだ。 いたるところにガレキは置き去りにされ被災のひどさを見るたびに感じていた。
地盤沈下で低くなったところや、排水ができなくなった低地はこのように水溜りがたくさんできていました。 この当時は、海水の入った畑はどのようにするのだろうといろいろ推測したものでした。
その後復旧の早い仙台では畑の表面を削って土を入れ替えているシーンを見るようになりました。
そのおかげか今年は仙台の被災地の水田で稲をテスト栽培すると言うニュースを知りました。
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