2012年10月9日火曜日
1ヶ月後の南三陸町
2日間ブログがUPできなかったのをお許しください。
実は2日前の午後8時に高速の浜松西 インターを出て、大分県の中津ドン・ボスコ学園に荷物を持ってゆきました。 浜松で残された時間が少なく、次の仕事場は問題児たちを扱った、養護施設にゆき、その場所で仕事をしますが、子供たちは担当者がたくさんいると思いますのでそこでは仕事はあまりないと思います。 仕事場は、大きな農園がありあまり使われていませんので、そこで野菜でも作ろうかと考えています。 まだ直ぐではありませんが1月の頭に学園に赴任する予定です。
車を運転していて、昨晩感じたことは東京や浜松程開けていません。 田舎です。
2011年3月11日に震災を体験し、運転しながら九州に下ると、太平洋が大きく口を開いたところがたくさんあり、海抜0m地帯も幅広く存在し、あれほど大きな地震や津波に襲われるとこのあたりはどのようになるのだろうと、考える今日このごろです。
これはその3月11日の南三陸町のガレキの堆積した、人々の生活空間でした。 それがご覧のように人の入ることのできなくなった空間です。
建物として外観が残ったのはこのような鉄筋コンクリートの建物です。 しかし使うことは絶対にできない建造物です。 現在はすでに撤去されているのだろうと推測できます。
運良く倒壊は免れた日本の住宅ですが、津波に土台から破壊され、がれきに押し出されて流されて、終着点がこの金属のブロックに寄り添って傾いています。 これも撤去されていると考えます。
山の裾の、斜面には津波で押し寄せられたガレキが取り残されていました。 資材道具から家具、衣類仕事の道具や車、それに漁船等ありとあらゆるものが漂着していました。
普通では考えられないところに車が漂着して、引き波にもちされれず、山の傾斜面にトリ残されていた軽自動車です。
この写真も悲惨で何が何だかわかるものはすくなく、自動車のボディーからはずれただろうタイヤがこれも流れ付いていました。
被災か1ヶ月も立たない被災地を支援のトラックが右往左往して仕事を始めているのも、すごいなー。 何かをしなければと思いながら、記録した写真たちです。
昨日までオーナーが使っていたであろう乗用車が、ヘドロにまみれて、ボコボコに変形し、放置されていました。 これらの、もういらない(ヘドロ付き)のヘドロの原因の追求がして欲しいと思ったのですが、マスコミで取り上げられることは少なかったと記憶しています。
ここにも破壊され使えなくなった乗用車の哀れな姿が点在していました。 1ヶ月後でまだ被災地の現場はご覧のようにそのまま、被災者はじっと、避難所暮らし。
誰も力を落とし、失望感に苛まれ、じっと自分の災難を考えていられる時間でしたね。 これは何の残骸だろう?
日本の各地から集まってこられた人々の動きも遅々としてではありますが、いたるところに車両が動いていましたが、被災地があまりにも広く、大型重機さえ小さくみえ、数の少なさに心の痛む思いが毎日でした。
これは何だろう?南三陸町で撮影したものだがあまり思い出せない。 ちょっと見るとファイルのような塊? 実はどこか家の前で使われていたシャッターが変形してガレキになったものです。 これが金属ですが紙同様、ぐちゃぐちゃになってしまいます。
泥にまみれがれきの中に入り込んだ自動車の残骸! 見つけることができますか? ひどいものですね。 こんながれきの中に何台もの乗用車が入っています。
綺麗な自動車販売店もガラスが大きく展示効果を狙っていたショールーム、見事にガラスは粉々に壊れてどこに行ったのだろうと、がれきを整理するたびに、粉々になったそれらのガラス瀬戸物、変わら、木片が土の中にうず高く堆積しています。 これらが後世の研究者が土を掘り起こして、平成の東日本大震災の地層を見る証拠とんって堆積しているのでうね。
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