2012年10月4日木曜日
南三陸町の震災後1ヶ月
南三陸町の中に流れる川とその周囲は壊滅的な南三陸町のシーンだ。 ここを襲った津波は国道45号線の右側から入り、国道の高台を挟んで奥から左側に押し込み、町並みを潰していった。
奥の白い建物は多分県立志津川病院で、周囲の建物はほぼ壊滅状態。 建物玄関側にはビルが幾棟かは残っているのだが、津波が3階以上を襲い、殆どは使えることができないようだ。
これは南三陸町漁港側で鉄骨のみが残った建造物が存在するくらいで、ガレキの散乱だけがひどく、使えそうな建物は平地にはほとんどなかったと記憶している。
正面に見えるビルは生き残っているが、津波の侵入で、使うことはできないと考えられる。
ビルの骨組みしか残っていない南三陸町。 日本の建築はこんなにひどいもので、鉄骨で骨組みを造りそれに少し厚い外壁を取り付けただけの建築だから今回の津波にはなすすべを持っていなかったようだ。
これが南三陸町防災センターで、有名な若い女性職員が避難放送を実行しながら津波に飲まれてしまった建物である。 その後、このビルは多くの訪問者を迎えている。 この建物は保存か、解体かで地元で揺れているようだ。
県立志津川病院の裏手だが、この周辺は多くの家屋やビルが存在していた。 海に近かった建物はビルでもご覧のように、津波にほぼ壊滅状態になってしまった市街地だ。
このビルも悲惨な状態でよくここまで鉄筋コンクリートを壊す津波の破壊力の凄さを見せつけられた。鉄筋が入っているために全壊を免れたようだがひどい惨状を見せていた。
このあたりは海に直面しているので津波の威力が数多く残っている場所であった。
この3階建の鉄筋コンクリートの全体を覆うくらいの定置網だろうか、屋上から覆いかぶさっていたのにもびっくりだ。
これはガソリンスタンドだと思うが、1ヶ月後にはこのようなひどい状態だったが、この数カ月後には外見はあまり変わらなかったが、ガソリンスタンドとして再開されていた。
ご覧のように細い鉄骨ビルは変形して、悲惨なシーンを見せていた。 引き波が去ったあとは人々のガレキがうず高く取り残されていた。
津波が引いたあとの被災地は1ヶ月後も同様なひどいシーンを見せていた。
ここも三階以上まで津波が侵入し破壊し、漁具を残して行ったり、がれきを破壊した所全てに多大な仕事を残していってしまった。
この写真は背景の右側の高台に一軒の家があるが津波はこの建物の2階まで壊して行ったのを覚えている。 この建物の右下にアパートか、ケアセンターのようなものがあったが、その建物の屋根までがれきを残していったのにも驚かされた。
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