2011/03/11 東日本大震災 記憶を忘れないための写真ブログ
復興のプランが見えて来ません。 どうにかならないのかなー!
2013年9月9日月曜日
20110616 女川被災3
女川港です。港のすぐ近くですから津波が入ったとき、一気に襲われた建物でしょう。 鉄骨コンクリートですから柱はなんとか持ちこたえたようですが、外壁はパネルの貼り合わせで、軽量化を図っていますから強度がどうしても疎かになりますね。
これも港のすぐそばにあった作業所でしょう、一気の津波で簡単に押しつぶされたようで鉄骨がみえていますね。 それとも小さな船のドックかな? 足の組み方を見るとドックのクレーンのようにも見えます。
港の桟橋に打ち上げられたタンク、税務署のランチの燃料かな? いずれにしてもパイプが外れ流されて桟橋に打ち上がっていたタンクです。
手前のビルは外壁が皆なくなり鉄骨した残っていません。 女川は入江の中の港で外洋はほとんど見えません入口が狭く湾内が広がり港になっています。200kmの長い津波が狭い入口に一気に押し込み津波の勢いを増幅したのでしょうか? 高さは15mから20m程になったのかもしれません。
最初に女川に入るとこのへんなビルを見つけます。これはおかしな格好をした、横転したビルで撮影班がビデオを回していました。 ここが土台の床面です。 土中に打ち込まれたパイルが津波の勢いで土台から抜けて横転を強いられたビルです。
右側が最初は『何に、これ!』ようやくジグザグをたどると非常階段が分かり、なんだこれはビルがひっくり返ってしまったのだなーと理解できます。それも四階建てのビルです。
手前は外壁を全部剥ぎ取られた鉄骨だけのビル。 小さな漁村に、それも港に密集してビルが立ち並ぶ原発太りの地方の小さな町です。 奥は自治体の建物?
この写真は、女川病院があの高台にあるのです。 現在はこの駐車場にゆくと女川漁港が一望でき、町を見ることのできる見晴らし台です。 しかし震災の当日はこの女川病院の1階まで津波が押し寄せたらしいです。津波で一人亡くなられたそうです。
横転したビルの横の真新しいビルも1,2階とも被災して窓サッシが全てなくなっています。 女川では4階建のビルが水没していますからこのビルも水没したと思います。
横転したビルの床下を見る、大変珍しい写真です。 昨年10月終わりに女川を通過した時にはまだ横転したビルはそのまま残っていました。取り壊すか残すか決めかねていると推測します。
2013年9月8日日曜日
20110616 女川被災1
これもすごい映像です。 多分港のすぐそばに建てられたビルですが、液状化現象だろうか、地盤が緩み右側に傾斜し外壁はボロボロに破壊され、鉄骨の弱さをさらけ出した。 まるで『幽霊屋敷』を呈していた。
女川港の岸壁に一基のタンクが打ち上げられていましたね。多分この備蓄基地から流れ着いたものだと推測できました。地震の地盤だ動き、転げ落ちた様子です。 タンクもぐちゃぐちゃですね。
これは小さな河口の一部ですが、女川はその他の漁港と違いこのような鉄筋のビルがたくさんありました、これはそのビルさえも津波の下に沈みました。全ての屋根にガレキが載っていますね津波の大きさが計り知れません。
この写真は前の写真の河口を含めた全景です。津波、破壊の凄さガレキの凄さ、どこを見ても考えられないシーンでしたね。全て破壊されました。
この川にもあ気になるとたくさんのサケが遡上してきましたがガレキが無数にはいっていましたので泳ぐこと卵を産むことは難しかったことでしょう。
川をまたいだ小さな橋ですがごらんのように何かわからないようなガレキの集積です。港周辺は漁港でっすので多くの加工場と倉庫がありましたが全て破壊され、被災していました。
水産加工工場ですが、外壁は大破して、多分ガレキを含んだ巨大な津波が壁面を大破させたのだと推測致します。屋根にはガレキ自動車、なんでも載っていました。
津波の高さはこのガレキがあの高い建物の屋根まで押し上げられた、津波の高さを見せつけられていました。
これは破壊された工場の土台だろうか?がれきとなってしまった、女川の被災地です。
対岸の一部から見た女川の右側です。ここは山が近くまで迫っていますので津波に巻き込まれない限り山に逃げ込めば助かったと思います。 しかし今回の津波のパワーでは、たの被災地とくれべてもベスト5に入るでしょう。
2013年9月6日金曜日
20110616 女川被災
おはようござます
久しぶりに朝から天気がよく、今朝は畑の畝を作り根深ネギを植えようとしています。
そのご、大きくなり始めた下仁田ネギの植え替えを同時にしようとしていますが、問題は雨が降りすぎたので畑の土が水を吸いすぎて、その後乾燥してカチカチになるのではと気を使っていますが。
この地図は今回の大震災で大きな津波の被害を出したところをチェックしています。チェックの付いていないところもたくさんあります。下は千葉県まで。そして岬の先端あるいは回り込んだ入江の中。本当に無数の被災地があります。
ここは石巻から仙台に向かう中間の岬の先端。 女川です。 小さな漁港ですが、原子力の恩恵を受けている街です。 ごらんのように石巻よりも鉄筋のビルが港町に立ち並んでいます。 ここの津波は異常に高く鉄筋の4階建てのビルの屋上にガレキが載っていました。
右のビルは5階建てのようで五階の窓も津波でなくなっています。
ここ、女川以外で見たことのないシーンで津波の高さが異常に高くそしてパワーを持っていたようです。最初に行ったと気この建物がどうなっているのか理解に苦しみました。 実はビルが横転していることなんです。 グリーンのシートは屋上の防水シートなんです。
港の周囲にあった多くの建造物がなくなっています。 正面の白い円筒は、漁船の燃料備蓄タンクだと思います。流れ着いたのですね。右側の山の傾斜にあるタンクが落ちて流れ着いたところが港でした。
これも横転したビルです。こうなって始めて手抜き工事がわかります。 パイルが一本もはいっていません。土台を作ったの?と単純な疑問が起こります。港の砂地にべた基礎でビルを作るなんて、常識を疑います。
破壊された女川港周辺です。 これも女川病院の高台から撮影しています。この高台も津波をかぶった聞きました。
5階の窓が壊れているのは津波がここまで押し寄せているのです、4階の屋上にはガレキが残っています。 これらのビルを除いて1,2階の木造住宅は全滅でした。津波を免れた高台は助かっています。
鉄骨のビルも安い発泡コンクリートを使った軽いものは簡単に津波で壊れています。後ろの荒地は流された住宅跡地です。磨いの斜面を上がってゆくと高台に女川病院があります。
外壁を剥ぎ取られたビルの残骸です。取り壊し寸前です。 津波が押し寄せ大きな窓や入口を破壊して侵入し、中を攪拌して出処を探し弱い外壁から破壊して出てゆきます。
運良く女川原子力発電所は被災を免れ現在に至っています。 立地が少し高かったことが幸いだったようです。 福島と女川が同じようにやられていたらどうなったことでしょう。
2013年9月5日木曜日
20110524 石巻カモメ
大分県中津は昨日午後から天候が回復しました。
青空も見え、明日は天気かな?と期待しました。
今朝はさすがに肌寒く、多くの人が長袖を通すように、たいへん肌寒い朝でした。
快晴です。現在4時に5分ほど前ですが、雲が少し出るくらい気持ち良い午後です。
空は既に秋の景色が1週間ほど前からウロコ雲が出ていましたし、紅葉では一番早い桜が葉を色付かせています。 秋です。
この写真は秋ではなく石巻港の5月24日でした。 かもめの大群がいつも群舞しています。 理由は苦労をしなくて餌にありつけるのが原因で。 津波後、倉庫にあった冷凍の魚類が腐敗するのを処理するために倉庫外に出して処分を考えたのだが、処分が進まず、腐ってしまい、最後は海のそばに山積み、そこで腐敗し、悪臭を放ち、それに石灰をかけてなんとか処理しよと、しかしカモメやトビの餌になり、いつも大群が屋根の上や上空に舞っていました。
まるで雪のように白いのは石灰を巻いた腐敗した魚介類が下にあります。 このような状態でもかもめは食べるのですね。お腹壊さないのかしらと考えながら・・・・見ていました。
前のパッケージは多分石灰で消毒用でした。 カトリック新聞記者の方を案内下時写真を撮りたいと降りて写真撮っていましたが、決死の行動で、息を殺し呼吸をしないで写真を撮りました。 最悪の匂いで・・・・
その後同じところを訪れたときこの悪臭の山を従業員全員で決死の作業をしていました。ショベルカーでもあると簡単に処理ができるのにそれがないから人海戦術で捨てていました。
嬉しかったのは、さすがこれだけの石灰まみれの腐った魚、海に廃棄しなかったことでした。これらを簡単に海に投棄すると次の津波でまた同じ真っ黒なヘドロ含みの津波が内陸を襲いますから、悪いことをするとその報いはまた返球されます。
2013年9月4日水曜日
20110524 石巻港周辺と住宅街被災9
中津市 今日も雨ですね!
いつまで続くのだろう。
雑草は取りやすくなるが同時に雑草の芽がでて野菜の芽と区別ができない!
自然はすごい。 自分が生き抜くために、新芽は紛らわしい。 そして足で踏んでゆくと雑草は実に抜きにくくなる。 困ったものだ。
ここは門脇小学校。 5月中旬でこのような状態でした。周囲は住宅街が津波で破壊され、津波に乗って押し寄せて来たがれきが周囲を破壊し、がれきを置き去りにした。 自動車も原型を止めない。 海はこの小学校前、800mくらいか。そこから何の抵抗もなく、防波堤を軽く乗り越えた津波は一気に石巻をがれきにしてしまった。
前の写真は火災でひどく火炎と煙を吹き上げたらしく学校の後者の壁を煙で黒くしてしまった。 ガレキに入り、流されて来た火元が可燃物にぶつかり火災をひどくした。 壊れた住宅のガレキは一気に火災を呼び、プロパンボンベ、漁船のストックした燃料も火災の原因となった。
このコーナーにはありとあらゆるガレキが流れ着き、特に墓石とその他のガレキの混合が目立っており、どのように整理するか他人事だが心配だった場所だ。
赤い車は消防車、小さいから自治体の消防団の消防車だろう。 避難勧告に動き回っていて、最終的には津波に飲み込まれたようだ。運転者は助かっただろうか?
これも実に驚いたシーンだ。日本フーズの燃料タンクか? 津波の時にジョイントが破壊され、多分タンクの上部に空間があったので浮力となり津波に浮き上がって最後は引き波で沖の堤防に打ち上げられてしまったようだ。
こちらは設置されていたところの燃料基地だろう。 一つは横転し。 流されたタンクからはもちろん重油が流出し火災の原因ともなったようだ。
これも港に停泊していたらしい漁船だろうが、陸地に津波によっておしあげられ海産物倉庫の前で停泊してしまったシーンだ。海に戻せばそのまま使えそうだ。南三陸は海に囲まれているのでそこにあった漁船やその他のものは津波で内陸部にたくさん押し寄せて来た。そして海の中に引きずり込まれたものもたくさんある。
2013年9月3日火曜日
20110524 石巻住宅街被災8
大分県の中津は雨が先週までは足りなかったのが、既に1週間近く雨も降り今日も降り続いています。 畑に十分に入りこれで良いのですが、運悪く台風17号が合流し、あと2,3日雨がまだ降りそうです。 植え付けもできません。 じゃがいもとネギを買っているのですが。 もう少し我慢しなければいけないようです。
これは石巻の小高い丘が街にせり出す日和佐山近くか。高台の下にあるので津波の限界がこのあたりです。しかしそれでも1階の屋根を津波とがれきがこさしているので、水深は2.5mほどにもなったようだ。
奥にある赤い屋根の家のように建面積が正方形のような住宅が津波に強いようです。そして面積が大きいのでガッシリした柱と梁がはいっており、重量もあるので津波にも耐えたようです。
これら電柱は多分破壊されてほとんどがなくなったところだが電力会社は既に動き出し、必要のないところにも、元の自分たちのテリトリーにどんどん新しい電柱を立てました。 まだ国はここに街を作ると決定していないのに、無駄な投資だと思います。 『被災者に電力を供給しなければいけない』の名目のもとに。 そしてここを使わないとなるとこれらの電柱はどうなるの? 自分たちの損失はないように、電気料金をあげたら回収できるから。 困った行動だと思う。
これは津波で生き残った右後ろのお寺の周辺だがほぼ全滅の状態です。 これらのトラック何をしにはいっているのだろう?どさくさに紛れて物を持ってゆく『けしからんグループもはいっていると聞く』
お寺を中心に撮影した門脇地区で、この写真の右奥に門脇小学校があります。
海や港は左手に当たり海までは500mほどでしょうか。 太平洋が広々と広がっており、恐ろしい感じがします。
被災地の真ん中に電柱を立てていました。どこに送るため?皆避難所で生活しているのに、果たして今ここに電柱が必要ですか? 前の見えない先行投資。 これを止める人がいませんからね。
これは門脇地区のどのあたりでしょうか?後ろに大きなビルがありますが、ガラスやサッシは全て壊れています。 がれきの中に前の大きな松ノ木等が含まれ、津波で押しやられてきますからいろいろなものを破壊して移動します。
被災後はこのようなトラックが本当にたくさん欲しいと希望していました。もっと全国で被災の現場を知ってくれたら一気にこれらの重機が入り復興も進んだろうに、理解が不足していました。
ガレキはごらんのように粉々になって散乱してしました。 戦争の爆撃もこれほど細かくくだからなかっただろうと推測しました。
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