2013年8月30日金曜日

20110524 石巻門脇地区住宅街被災


この写真は門脇小学校(被災)前の地区でほぼ全滅したところだ。周囲が全滅しているのに幸運にも建物が津波に耐えて残った住宅。 この地区は水深3m程津波が押し寄せたところ。


ご覧のように住宅が数える程しか残っておらず、周囲は全壊してしまった住宅がガレキとなってしまった門脇地区。 奥に県立石巻病院の鉄筋の建物が残っている。


ガレキと化した門脇地区で左側に大きな北上川の河口と正面は広々と開いた太平洋があります。 その手前が石巻港と海産物の倉庫群と事務所や仕事場がありますが、巨大津波には何も抵抗することが出来なかった。


このあたりは後ろに小高い丘があるので丘に逃げ込めば助かったと思いますが、海に近い住宅街からここまではかなりの時間を要します。 車で逃げると可能性はあったと思いますが、渋滞は無かったでしょうか?


住宅をご覧いただければ津波の高さ、規模を推測するのは難しくありません。1階の屋根の先端まで瓦が剥がされていますので、水深が1階屋根の先端と見て良いと思います従って海水は2階の1.2mほど入っていますか?


津波は密集している住宅が互いに助け合って何とか東海だけは免れたようですが、甚大な被害を出しました。そして今は見ることができませんがヘドロ混じりの海水が全ての家の2階まで押し寄せ中を攪拌して出て行っています。


ガレキと化した石巻、門脇地区、すでに被害の整理をし始めているようで、ガードマンが現場にで初めていました。


学校前の住宅地の被災は甚大で、この地区でどれくらいの人々が命を落とされたでしょうか。 学校の裏山まで行けると助かったと思いますが・・・・・


津波の入ってくるとき、そしてその後ガレキに火が入り火災を引き起こしております。門脇小学校(後ろの建物)から左側に大日本製紙工場まで山に沿って火災がこの地区を焼いてゆきました。


奥に見えるのが手前が鉄筋のアパートでしょうか(4、5階建て)その後ろが大きな県立石巻病院で海のすぐそばにあります。

2013年8月29日木曜日

20110524 門脇小学校前の住宅街被災


これも津波で陸に押し上げられた比較的大きな船。 後ろのマストも曲がってしまい、何がぶつかったのだろうか?


これは港近くの建物だが、ガラスの破れたところは津波が流れた高さだろう。 外壁やサッシ類はその時の水圧に耐え切れず曲がってしまったようだ。


石巻港付近の住宅地、威力ある津波が押し寄せたようで、ほとんどの住宅は壊滅的な打撃を受け運の良い家屋が数軒残っていた。


乗用車も原型をとどめず、電柱も切断されたり曲がって倒れたり何物も残っていない石巻の住宅地。


石巻の住宅街の弱点は、私見だが、左右と後ろに小高い山がないこと、住宅街の中に逃げ込める鉄筋コンクリートの建物が大変少ないこと、これらた死者を多くした原因だと思う。


唯一目立つ大きなビルは石巻県立病院がそれも住宅地の隅にあるため、利用が難しいこと


これは何だろう? 住宅の庭木? 冬のため落葉しているのか、津波の海水を浴びてかれてしまったかは定かではないが、後者だと思う。


壊滅的な被害を受けた住宅街はご覧のようにガレキが散在する荒地となってしまった。あそこの森に逃げ込めただろうか? 高さは十分ではないようだが・・・・・


門脇小学校前の住宅街は一番被害がひどくそこに火災も入ったので被害はもっと深刻だった。


奥の鉄筋の学校が門脇小学校で右下の調理室の火災が上に燃え広がったようだ。 校舎の壁面に火災の時の煙と火炎の跡が残っていた。

2013年8月28日水曜日

20110524 石巻港周辺の被災


これは石巻の今回の東日本大震災のガレキです。 一部ですが、破壊された住宅街は広大で住民の被災も最大であります。 巨大なクレーンが右隅に見えることは港の周囲の大きな空き地だと思います。


ここもたぶん広大な土地があるために石巻の被災ガレキが運び込まれる場所だと推測できます。
すでにダンプトラックが行き来しています。


奥に小さなガレキの山が出来始めています。遠くに見えるのは港のドック類があるところだと思います。


すでに種分けされたガレキが積み上がり初めていました。


緊急援助のために石巻港に停泊しているカタマランのフェリーで大型船舶でした。10000トンはあるのかな? モダンなデザインでどこで使われている船だろう? 後ろな黄色い円筒形が見えるが、肥料か飼料のサイロかな?


これは最初は石巻の発電所だと思っていたが、通って見て正確な地理や、場所、名称が分かり始めた。 これは大日本製紙石巻工場でたぶんパルプをボイルして紙の素をつくる炉があるところだろう。 これだけの設備が必要なようだ。


巨大なクレーンが係留されていました。 しかしまだこれよりロープの数がもっとたくさんある、超巨大クレーンの係留されていましたが船舶の海面に下ろす作業に使われたのだろうか?


通常なら海上の船舶の案内のために海に浮いているブイだが津波で沖から内陸部に流され、陸上のブイとなってしまったようだ。


これらのタイヤは港で使うクレーンやフォークのタイヤか?流されて港近くに溜まっていた。
周囲は海産物やガレキに覆われ嫌な匂いが立ち込めていた。

2013年8月27日火曜日

20110524 石巻河口近くの住宅街被災2


石巻港は震災後2ヶ月でもこのような光景でした。 北上川の河口は当然漁船も数多く係留されていただろうから、津波で水量が上がり河川は氾濫したので漁船も内陸部に数多く運び込まれたその一部です。


地盤沈下と排水口が塞がれたので海水が海に戻らなくなったり、雨水がたまってご覧のようなシーンはいたるところに見られた。 奥にはもっと大きな漁船も流れ着いていた。


石巻の住宅街はご覧のように全壊してしまい残された住宅もメチャクチャになってしまった。
空き地はまるで集積場のようなガレキが散乱していた。


地盤沈下だろう水溜りが多く出来て、交通の邪魔をしているところがいたるところに見られた。
がれきにはガラスや倒壊家屋の釘や木ネジが散乱し、多くの車がパンクに見舞われ、じぶんもボランティア中に3度もパンクをさせられた。2階の軒下まで海水が押し寄せて来た。


港近くの何かの工場か仕事場だろう。 外壁はトタンで出来た外壁だからヒトたまりもなく破壊されたようだが、よく津波に耐えて残ったものだ。


宮城登録の漁船だろう、これも内陸部まで運ばれたものだ。
巨大なサルベージのクレーンがないと海面まで戻すことが難しい問題だろう。


石巻港の周辺は当然貨物船や漁船の修理、新築等のドックがたくさんあり大型クレーンが林立しているのだが、ここも差別なく津波で洗われ甚大な被害をだしていた。


クレーンの下は造船所だろうしかし2階の高さまで津波が押し寄せているので、造船所の施設、設備も大きなダメージをうけてしまった。


河口は港か定かではないが、海抜0mのところは今後は住むことが許されないだろう。


地盤沈下で出来た水溜りに早速鴨のペアが泳いでいた。 実際は右上の下水のマンホールを見るとわかるように実際の地面はあれと同じ高さに設計されていたのが、30cmほど地面が落ちてしまったようだ。

2013年8月25日日曜日

20110524  石巻港付近の住宅街被災1


クレーンの見えるところは石巻港だろう。 その前の住宅街はほぼ全滅だった運良く津波に耐えたおおきに住宅はこのように残ってはいるが、このあたりはたぶん海抜2、3mだろう。 太平洋から一気に押し寄せた津波は簡単に石巻市街地を飲み込んだ。クレーンのある方向が海側だ。


残されたたてものはたぶん鉄骨コンクリートの学校の体育館のようだ。 周囲の住宅は全て波に流されてしまった実に被害のひどい、稲佐山から見た右側の平地だ。


ご覧のように住宅街はほとんど何も残っていない全滅した地区だ。道路も通行はできるようになったが地盤沈下や排水出来ていないところでストップするところも目立っていた。松並木は川沿いか海沿いか定かではない。


ガレキもあまり残らない、壊された住宅は津波によって土台から外され内陸部に流されたのが多い。 その後引き波で海に引きずり込まれたものも多かったようだ。


大きな安定した住宅はそのような津波の中でも耐え抜いた。 ここでは破壊されている位置が津波の高さと推定するのが妥当だろう、1階の屋根を通り越し、2階の窓が少し壊れているところまで津波とがれきの高さだと推定できる。


この石巻は津波とヘドロが一体となり襲っているので家財道具はほとんど使うことが出来なかったと推測出来る。


自分達が入った5月ごろには快晴の日はヘドロが乾燥し、梅雨時はそれが水分を含み、悪臭とハエの発生源になっていた。 ヘドロは大日本製紙をはじめ、港周りの水産業その他の、肥料、飼料等が排出するものと、市民の生活排水が海水を汚し、その仕返しを受けたと、自分では考えている。


襲い春だが、海水に浸かった植物は、雑草を除いて多くの木々がダメージを受け、冬から春に向かっての目覚めが無かったと思う。


破壊された住宅街の中の空き地は雑草に覆われていたところが枯れてご覧のように変わっていた。手前の真っ黒な傾斜面は海から上がったヘドロだ。 これらが街中、20cmから30cmほど堆積していた。


奥は大型の漁船が丘に打ち上げられていたと思う。 手前は漁船や人々が使っていた乗用車が破壊され変形して取り残されていた。津波に耐えて残った住宅も海抜が低いため、再度生活する許可は出ないのではないだろうか。


港の手前はご覧のように津波で持ち上げられて大型の漁船や貨物船まで沢山陸の上に運ばれていた。自分が当時見た一番大きな船は5000tonほどの貨物船が岸壁に落ち上げられ、巨大クレーンがないと海に戻れないほどのモノを見た。