2013年6月24日月曜日

石巻の南浜地区の残された住宅と20110413南三陸町


これは石巻の南浜町で数軒残っていた住宅です。 屋根にはソーラーパネルが設置され、かなり新しい住宅だとわかるが、ご覧のように津波で破壊されていた2階の1m程は浸水したように感じた。 昨年10月に行った時は周囲の住宅も撤去され始めていた、すべたが更地になるのも時間の問題のようであった。


これは南三陸町の岬の先端、海のそばにあるアパートのようで津波の避難ビルに指定されていたと記憶している。 しかし津波は4階まで浸水し、津波が襲った時は恐怖だったと推測できた。4階までは窓は打ち破られ、漁具や住宅の破片、家財道具が散乱していたと思う。 津波の避難場所としては生き残っていたが、12年の10月に訪れた時にはすでに撤去されていた。


これは45号線の延長で大きなビルが残っていた場所だ。 左側には県立志津川病院があった場所で、しかし昨年の10月にはその志津川病院も撤去されていた。


ここは南三陸町の港のそばで、コンクリートの施設がまだかなり残っていたが、すべてが津波のダメージを大きく受け、その他の施設や住宅は壊滅的な被害を受けた町だ。


これは畑や住宅の散在していた場所だが、小高い場所の麓まで津波が押し寄せ地表を削って行った場所だ。


このあたりは最初に気仙沼に向かったとき最初の衝撃を受けたところで津波はこんなにパワーがありいろいろなものを押し流してきたものだと感じたところでした。


畑の中に散在していた住宅に津波が押し寄せ、破壊した住宅のがれきとともに大型バスまで押し流した現場を見たときの最初のショックでした。 横倒しになったバスが流され自分の家に傾いて止まったのを見た持ち主もびっくりしたことだろう。


津波の高さは破壊された家の場所で推測していました。 あるいは生活に慣れ始めたボランティアでは津波が残した海水の跡を探してどこまで来たのか証拠を探していました。


広い場所は畑だった可能性が大きく、鉄筋のビルは企業や自治体のビルなどで津波に耐えて残っていました。 破壊されたガレキが押し流され津波が引いた後に残されたガレキです。


国道を挟んだ被災地の4月でした。国道やその他の道路の復旧は比較的早く、以前の神戸の地震より復旧は早かったと思うが、その後の復興は遅々として進んでいません。


いち早く復旧し始めたのは電気のための電柱の新設が目立ったようだ。 いたるところにガレキは置き去りにされ被災のひどさを見るたびに感じていた。


地盤沈下で低くなったところや、排水ができなくなった低地はこのように水溜りがたくさんできていました。 この当時は、海水の入った畑はどのようにするのだろうといろいろ推測したものでした。
その後復旧の早い仙台では畑の表面を削って土を入れ替えているシーンを見るようになりました。
そのおかげか今年は仙台の被災地の水田で稲をテスト栽培すると言うニュースを知りました。

2013年6月19日水曜日

スケッチは石巻の門脇小学校です。20110413歌津、南三陸町


このスケッチは石巻の門脇小学校の火災あとです。 スケッチの右下が調理室のようでここが一番激しく燃えたようです。多分プロパンガスを使用していたのではと?推測できました。
1階の右下が燃え上がり右からの風を受けて3階まで燃え上がった証拠が校舎に残っていました。


この写真は南三陸町に入る前の歌津でレストランらしき建物は湾の中に押し込んで来た津波の第一波は下の写真でもわかるように湾をまたぐ45号線のバイパスの橋桁さえ落としたくらいのパワーで、丸い展望部分を打ち破り、左端の壁面を破壊して津波が出て行ったことが建物で読めます。


湾の上をまたいでいたバイパスは橋桁が落とされ、現在も復旧されていませんでした。
湾の入口にあった住宅や、旅館は一瞬にして破壊されたと推測できます。前に横たわるコンクリートは土台です。


これは上の写真の反対側、歌津駅方面を見ながら撮影したもので、住宅や旅館の跡形さえ残っておらず、床と土台が残るだけで、後ろの鉄筋の建物は役場関係の建物でした。

ガレキがうず高く積み重なり、津波のひどさを見せていました。

街の中の国道45号線のそばに数軒残っていた建物です。 まるで幽霊屋敷のロケ現場のような感じで取り残されていました。この建物の向こう側に同様な被災したビルが数軒ありました。


ここは港の前でこの『うたちゃんばし』と言う橋が震災前までは活用されていたようですが。震災後はガレキがたくさんあったので、現在も使われていませんでした。


歌津町役場が道路のエンドに見えます。 鉄筋の建物が数軒残っていましたが全て大きく被災しています。 スケッチした昨年10月はほどんどこれらのビルも解体撤去されて何もありませんでした。


これらが役所関係の建物だったと記憶しています。


これは歌津町から南三陸町に入る坂を下りた場所から被災し、ガレキの山がいたるところに見えました。 この鉄骨は何でしょうか? 原型を残していません。


山の裾野の部分の赤土が削られているのは海から来た津波が小高い丘を舐めていったので斜面が剥ぎ取られています。


川や用水路がある部分は津波が入りやすくそれを氾濫した海水がそこから氾濫し左右の町並みを破壊してゆきました。



左上の用水路の中にマイクロバスがはまりこんでいました。

2013年6月13日木曜日

南三陸町の特養老人ホームと20110413本吉歌津


これは南三陸町の特養老人ホームで高台にあり津波が来ないのではと考えられていたのだがこの高台の1階の屋根まで津波が押し寄せ、You-Tubeで有名な、南三陸高等学校の斜面から写したビデオが有名だが、その高等学校の少し下に位置する施設で、多くの寝たきりの老人を高台に移動するのは難しかったようだ。

これはどこだろう? 南三陸鉄道の橋脚か、それとも海の近くの防波堤の一部か、定かではない。上に見える高台の2件の住宅、下は1階が津波で破壊されているようだが、全壊は免れたようだ。


この写真は歌津に入る前の国道45号線の一部のようだ。 道路沿いに津波が走り山の斜面を壊した様子が伺える。1ヶ月後は、各電力会社も自分のテリトリーの電柱をいち早く復旧するために動いていた。


これは本吉町から歌津に入るところの道路のようだ高台の住宅は全壊は免れたようだがやはり1階までは津波が押し寄せて来たようだ。 被災した自動車もまだ手つかずで放置されていた。


この写真は気仙沼から歌津に入った最初の建物だが、海のすぐ近くにあるため、津波の被害は甚大で、多分海の見えるレストラン、売店のお店のようだ。 鉄骨コンクリートの建物も津波の最初の直撃を受けているので一気に3階まで津波が直撃し、外壁を剥がし、サッシを破壊して行った。
スケッチをしていた10月はすでにこの建物は撤去され、歌津ではほとんど被害を受けた建物は撤去されてしまっていた。


この写真は前の写真の海側に面したバイパス道路だが津波の直撃は強く橋脚上の道路はいたるところで落下し、震災以来使うことはできていない。10月はまだこのような状態であった。


これも橋脚の1本だが津波のパワーに鉄筋の部分のコンクリートもご覧のように破壊されてしまっていた。


小さな漁港をまたぐように作られていた国道45号線のバイパスは海の直近だったの最初の一撃で橋桁が破壊流されたようだ。


橋脚ががっちり作られていたので壊れないものもあったが、橋桁は繋いでいるので破壊されたり、流された部分がたくさんあった。


これは歌津の海岸付近は住宅は何も残らず、駅に近づく付近の役場や、その付属の鉄筋のビルが残っていた。 こんなに大きな道路のコンクリートが橋脚から落下するのも凄い。


破壊尽くされた、歌津漁港の周辺のガレキと被災建物の残骸だけ、累々と横たわっていた。


鉄筋コンクリートの建物の外壁やサッシは弱いところで津波が侵入し、出て行ったあとにできたその傷跡だ。2階建ての上の屋根まで多分津波が落下した海水の重さで破壊されたのでは推測出来る。道路は国道45号線で右側は高台に南三陸鉄道の歌津駅があるが、津波が鉄道の盛土を押し流し、鉄路(線路が一部破壊されていた)


国道を挟んで右側に歌津町役場やその関連施設が残っていたが10月にはほぼ被災した建物は解体され、撤去できていた。

これは重機が入り、被災したガレキの撤去に唸りをあげて仕事をしたいたが、これらの重機は1台くらいしか無かったと記憶している。

2013年6月5日水曜日

 本吉町の海の宿泊施設 20110413本吉地区の被災

忙しくしております。ブログが滞ております。お許しください。
今年はミニトマトを栽培し始めました。少ないですが、工夫して1本の木に100個実らせたいと、研究しています。 こんなことがあるから農業は面白いですよ。


これは川の先端の左側の低地、そして海の砂浜に立っていた宿泊施設でしょうか、土台をむき出しにされ毎日海水で洗われていた残ったわずか一軒の建物です。 もう撤去されたでしょうか?


ここは南三陸町に入るまえの半島の内側で川が一本海に流れ込み、それが津波を増幅させ入りやすかったと想像できます。 この一体もほぼ全滅で何も残っていなかったと記憶しています。場所が低かったためか、道路はバイパスがありそれはこの低い土地の部分を高架で通過しています。
震災の当日津波はこの高架の道路をも軽々と超えたようで、引き波の時になんと住宅がこの高架の道路上に3軒も置き去りにしていました。 写真では手前の道路の延長線上みえています。


この辺にあった住宅は全てガレキに化し、ご覧のように積み重なって平地に散乱していました。



高架の道路はこの自動車と比べるとわかると思いますがかなり高いところを走っていたのに完全に水没し津波が上を通過し、引き並みも同様に橋の上をながれてゆき、運悪く3軒が引っかかったようです。


住宅のあったところは完全に破壊され、ガレキとなってしまいました。自分の知る範囲で、この部分には一軒の住宅も残っていなかったと記憶しています。


向こうに川の堤防が見えると思います。 バイパスは一気に川と低地を通過するために高架を考えて作ったようですが、その上を通過した津波のパワーを想像することは簡単です。 高架の橋もいろいろなところでコンクリートの部分が欠落したり破壊され、未だにバイパスは復興されていません。 応急の国道45号線はこのしたを通過しています。


橋の上のガレキはこんな状態で、昨年のスケッチをした頃には道路の上のガレキは全て撤去されてはいましたが、本吉町と歌津も同じバイパスが落ちているので開通の目星はついていないと思います。


川のそばにあった住宅地は6mほどの津波が川に沿って遡上したの周囲の住宅は一瞬で破壊されていったと想像できます。 のおったものは土台とがれきでした。川の堤防もいたるところが決壊し畑も地盤沈下で水が溜まっているところも多かったと記憶しています。


これはどういうことでしょう? 橋脚ごと津波で押し流されたようです一部が決壊して落ちても常識ではつながりませんね? わかりません。


これは道路と鉄道が一緒に走っていたようです。 これはこちら側の盛土とコンクリートが合体する部分でそのジョイントの部分も大きなダメージを受けていました。


これはまなみ三陸町よりの盛土部分で鉄路も海から来た津波に押し流され大きく盛土から流されしたまで流れ落ちていました。


これはこちら側の川の堤防で、ざっくりと表面が刳られ、盛土が、土だけになっていました。海から駆け上がって来た津波が護岸に沿って遡上し、津波がはるか上の方から押し寄せたので一気の堤防は破壊されその勢いで住宅地は一瞬で破壊されて行ったようです。


これは東北では川の海に落ち込むところに水門がありその、コントロールをしていた建物のようですが、津波が沖の漁具やあみを押し流し、建物の上に置き去りにしていました。


入江ですから海産物加工の仕事場や、倉庫が会ったらしいですが、鉄骨では、ほとんど外壁を残すことんなく、裸にされた鉄骨が残っただけでした。


地盤沈下でしょうか、それとも津波でえぐられた低地が水浸しになっていました。
これは本吉町です。