2013年1月29日火曜日

大船渡の堤防の結界現場と仙台から気仙沼までのバスの車窓から



このスケッチは大船渡に入る前の川の堤防が決壊したところにあった重機で1tonの土のう袋を並べたぶんその上から盛土をして堤防の結界修理とするだろう。 まだこれら決壊箇所が修理されていない


話は少し飛ぶが、中津は昨日実に寒く朝から小雪が舞いその晩に少し降り、敷地全体が白く雪化粧をした。 今年の東北も寒そうで、こちらから毎日パソコンで天気予報を出していると、あるときはマイナス18度と出てびっくりしている。
この写真は昨日同様仙台から気仙沼に向かう途中の写真をとっていたので、比較的に新しい震災の写真を見ることができる。

この自動車の後ろの建造物は何だろうか?何か海藻とか貝類だろうか? それならこの面を海中に沈めた上の白い部分は手すりのようなガードの役目を果たしていた港の船着場の建造物と見た。


この写真の場所は定かではないが南三陸町から気仙沼のあいだであまり大きな街ではにようだ。写真の後ろが海側だろう。国道45号線の上を走っている。


結構自分が撮影したところは覚えているのだが、バスが動きながらの撮影で、次から次へと写したので、あまり記憶に残っていないのが残念なところだが。


布団からタンスを含むありとあらゆる家財道具が津波に巻き込まれ、またはヘドロを浴びて全く使えなくなったがれきの山がどこにでも作られていた。


コンクリートの電柱でさえ、津波には抵抗できず、このように引き抜かれたりあるいは途中から折れて、中の鉄筋がコンクリートからずれて折れ曲がるシーンは今後どこででも見ることになった。


これは街の中に入る市道で、がれきの整理の邪魔にならないようにガードマン付きで仕事が行われているようだ。


手前は畑か水田だったようだ、 人家まだ少し距離があるが、奥の白い建物は鉄筋コンクリトの建物のようだが、1、2階ともに津波に押し込まれているようで2階のガラスも扉も無くなっているらしい。


樹木が根こそぎ押し流されてきて、海岸の砂浜にある防風林や防砂林が根こそぎ内陸部に
津波で送り届けられているようだ。


ここでは道路のアスファルトが津波で捲り上げられ、津波の威力に驚かされる。奥は高台の人家まで津波が押し寄せて来て前の住宅街だろうかほとんどがれきになって残っているシーンだ。


奥の高台らしきところが樹木の最後で右側の空間は津波でなくなった防風林だろうか? このような風景は仙台や南相馬の海岸でよく見たシーンだ。


反対の山際まで津波が押し寄せ引き波で海まで戻らなかった運の良いがれきたちだろうか。
ここでも電柱が倒壊している。


高台まで押し流された住宅らしい建造物か斜面まで持ち上げられ取り残された。 どこから流されてきたものだろうか定かではないが住宅さえ押し流す今回の津波!

2013年1月27日日曜日

大船渡の被災家屋と国道45号線で気仙沼へ



このスケッチは大船渡の昨年10月だが、高台したの鉄骨の家がまだ解体を待って、立っていた。 オーナーらしき人がここで何か、古いものを他詰めている気配で、1階の軽自動車のそばで働いている気配がしていた。津波はこのあたりだと2階まで襲ったらしくその爪痕がいたるところに残っていた。


上の写真は最初のボランティアで仙台から気仙沼に案内されるところで、被災地の真ん中を通る国道45号線のいたるところでがれきの撤去作業が行われ、渋滞の原因となっていたが、皆震災のひどさを痛感し、黙った見ていた。


これだけの広大な被災地を実感すると(実はまだ、ほとんど見ていないので実際は分からないが)目に付く被災地を見ながら、徐々にその大きさを体験していたのである。 この場所でさえ見渡す限りがれきの散乱したところだが、小さな重機がわずか1台しか動いていない歯がゆさを感じている。


道路のそばには車から、漁船、そして家屋の倒壊した残骸、家屋から流出した家財道具がいたるところで散在していた。 斜面の樹木はなぎ倒され声にならなかったのを覚えている。


この白いものは何だろう?と撮影したもので、国道のガードレールではなく、何かを落下から守るものだったかもしれない。わけのわからない物がどこでも散らばっていた。


津波が入り込んだ家屋は外壁が壊され、中にあった家財道具はほとんど浮き上がりその流出場所を探して残りの外壁を破壊していったようだ。その津波の強さに耐えた家屋はこのように残ったのだが畳をはじめ家財道具はほぼ全て破棄されてしまうだろう。


ガレキの集積場所がまだ決まっていないし、持ち主がそのご探すと予測されるので、多分道路などにあったこれらの品々が一時的に集められているところのようだ。


車窓からみた国道脇の場所だが高台までほとんどがガレキに化していた。


前の乗用車が仙台教区の小松神父様が運転するスバルです。すでに日常化している工事現場の通行整理のガードマンが少ないが配置されていた。


ゴミ収集車がくるのを待っている使わないと判断された家財道具やがれきが。道路に日を追うごとに増えてゆくのである。


国道に似合わない漁船が横たわっているのにはやはり最初は驚いたが、色々被災地を見るうちに慣れてくるシーンの一つだろう。 港が、あるいは海が近いのかな?

大船渡の水門と気仙沼の被災


このスケッチは大船渡市に入る前の川で水門は壊れていなかった多分ここも水門の開閉はできず、それ以前に堤を大幅に超えた水量が一気に市内に流れ込み、この土嚢を積んでいる部分は堤が壊れてしまったようだ。 これくらいの塊のコンクリートなら今回の津波に耐えることができたであろうが、それ以前に土を盛った川の堤は長時間に浸水で壊れるのは時間の問題だろうと予想はできる。




ここは気仙沼漁港で多分このくの字の部分はコンクリートのカバーがついていたようだが、ほぼ全てのコンクリートは移動して内陸部にめくれ上がっていたと思う。


これは小さなそれでも、コンクリートの建造物が横転して水路の中に落ち込んでいて津波の強さを改めて感じさせられた。


船だろうが建造物だろうが、お構いなく動かして行った津波のパワーは、震災後1ヶ月たっても、ほとんど手つかずの状態が現地に残されていた。


これは大型のイカ釣り漁船だが海上で火災に会い、真っ黒に焼け爛れてしまった船体を漁港に係留していた。 今は海中に沈められたか、スクラップないなって、見ることはできないが・・・・


これらの火災に会った船体は自分から火を出したわけではなく、周囲のガレキに引火した重油が海上で燃え盛り船体を焦がして行ったと思う。


これは何だろう? 解散物の加工のための機械だろうか
どこから流れ出してきたのかさだかではないが場違いなものである。


最初のボランティアさんたちはこんな出で立ちで仕事に行っていたものだ。 地元の人などは自転車が便利で自転車を手に入れて現場や、お手伝いのところまで自転車をこいで行っていた。


この写真は気仙沼の魚市場でここも地盤沈下がいたるところに見られ、使える状態では無かった。しかし震災で市場の建物が落ちているところは無かった記憶している。


最も悲惨な火災を受けた漁船だ震災後1ヶ月風雨にさらされてしまったので、船体にサビが出はじめ外形は残すが火災の凄さを改めて見せつけていた。 最もこれら火災んお原因は漁船のための燃料保存が津波で引きちぎられ流れて湾内から内陸部を燃やしていった。


津波のパワーで海から陸に押し上げられた漁船たちで、ここではあまり見えないが、内陸の住宅を襲った津波は皆真っ黒なヘドロを市内中、家の家財道具を汚して使えなくしてしまった。 最もそれらのヘドロは住民、仕事場の海産物業者等が出した汚水が原因をしていると、考えなければいけないものを持っていた。


これはヘドロを含む汚泥が乾ききれずに残されている、その上に流れ着いた被災の建物があるがその下の汚れた土をよく見て反省し、次の津波に備える準備が大切だと思うが、悪い習慣はそれほど変わっていなかったと、1年半のボランティアで感じたものである。


これは気仙沼の港にある神社の参道だと思うが津波で壊されてしまい、当分参拝できない状態であった。 後ろは被災した気仙沼の町並みの一部だ。


震災のボランティアをして感じたことは安い材料しか使えなかった庶民の住宅の被害が大きく、お金があって、それなりのしっかりした材料を使った家は津波にも耐えたのが、皮肉であった。ボランティアはお金持ちの家のお手伝いが多かったと今でも感じている。 庶民の方にはボランティアのお手伝いすることもできない、何もなくなった方がおおかったようだ。

2013年1月25日金曜日

最初のボランティア 気仙沼で


大船渡の港近くにある地元(東北)のスーパーマイヤの施設が津波で被災し、これらの大型施設が取り壊しを待っている状態で周囲に重機が散在して解体の雰囲気がで初めていた。
津波は1階を完全に水没させ2、3階はどれほど津波に洗われたのだろうか、津波のラインを読むことは出来なかった。


気仙沼の最初のボランティアグループは静岡の教会グループで、仙台のカリタスジャパンに申し込んだらなんと250kmほど離れた気仙沼まで案内され、そこで地元のボランティアセンターで仕事をするようになった。 家族的な雰囲気で、食事は全部持参、器具はあればそこで借りることができた。


ここは気仙沼の港から500mくらいしか離れておらず心配したが、岩山の裏の8階建のマンションのレオびーを借りて寝泊まりした。 市内はこのような状態で津波の仕業で、振動による倒壊は見ることが出来なかった。


朝食はありあわせ、持参したものを食していたと思う。 
しかしショックだだったのは4月7日の余震で真夜中にたたき起こされたことだ、震度7、3くらいだったかな? 自分はバスの中で寝ていたが、あまりの凄まじさで、迷うことなくマンションに駆け込んだ。 上からの落下がないだろうか少し心配しながら・・・


ねるところはロビーの床の上直に寝たので固くて、バスのシートの方がまだ心地よかったのでバスを選択したと記憶している。 寝具も持参した毛布や寝袋が使われた。


気仙沼の港周辺にはこのように車も漁船も同居してさながら、混沌だったと記憶している。とりあえず、行政は道路から邪魔者を移動して車が通行できるスペースを確保していた。 ただ気仙沼も例外なく地盤沈下があり、通行を難しくしていた。 まだそれを解決する盛土はあまり無かったと記憶している。


港の桟橋周辺はご覧のように、係留されているものは多くが火災にあった焼け焦げた漁船だった。桟橋の道や広場は津波が掘り返したように、コンクリートのパネルさえこんな状態だった。


通常はこんな光景は新聞ダネだが、今回は場違いなシーンはいたるところで拝見できた、津波で浮かび上がり、引き落とし並みで最後に引っかかたのは屋根の軒先の上だった。


海上にあった大型漁船が火災に会うなんて常識では考えられないが、多くのビデをを見ると気仙沼は重油タンクが沢山内陸に向かって津波が運んだのは記憶に新しい。それらが重油を海上で垂れ流し、がれきに引火して火災が起きたようだ。


上のタンクも漁船の燃料を保管していたところから管が抜け流されたところは陸上だったようだ。
タンクもいろいろなガレキと衝突を繰り返しベコベコになってしまった。


どこの港でも見ることができる船を係留するもので、いかにも強そうな様相をして経っているが、今回の津波には勝てず根元からボッキリ折れて転がっていたのにもビックリした。


津波が襲ったのちに止まったであろうガソリンスタンドのかべに残されていた時計だ。
ご覧のように天井もめちゃめちゃでここまで完全に水没した証拠だ。


桟橋の岸壁に打ち上げられて残った漁船だ。 ここの桟橋かあるいは他から流されてここが終点だったかは定かでないが・・・・・


焼け出され、1ヶ月海水や風雨にさらされところどころサビが出始めた、火災で被災した漁船が桟橋を占拠していた。 被災後警備に人など割り当てられないので、こんなに近くで観察できた。