2011年8月27日土曜日

岸和田の皆さんボート立ち上げました。 見てください 深川






2011/08/27
皆さんボート成功しました。
昨晩の心配は、やはり結果としてボートをほぼ半分、波が砂を運んでうずめてしまいました。『やはり!やられた!』の感じでした。 しかし今日の皆さんはすごく一気に昨日の砂浜に戻してくれ、その間、昨晩カインズホームで手に入れたロープやチェーンブロックを活用するために、金原さんが海の近くにある高台に上りロープを松の木に縛りチェーンブロックをつける7準備をし、昨晩買ったすべてのロープ、機器は全て活用し起こすための準備は出来ました。 ロープは船体の下から回し選定の上で合体させジャッキとチェーンブロックにつなぎそろそろと動かし、船体が少し動き始め希望をつないでくれた。
アナログの機器と人力を併用し動いた状態で人力で持ち上げ、ブロックを積み落ちないように保ち次に何をしようと考え、船の横に穴があるのを見つけそれを利用してモーター部に回しジャッキで引くと山側に立ち上がることを確信し引き揚げ、結果は直ちにあらわれ、先日のブルーのブロックから立ち上がりブロックは簡単に取れ、希望はわき、船が一気に立ち上がりはじめ、横から人々が流木で支え一気に動き始め、その後垂直までは簡単に立ち上がることができ、最終的には船で帰る前に十分に間に合い完成を見ることができた。








漁船が立ち上がった後の地形と海水が入り始めた穴 すでに漁船は横転しています


写真の順番が逆になりまいた。下からが順番です 横転前の写真です



垂直に立ち上がった漁船です。 海水がすでに侵入しはじめています


昨日買ったチェーンブロックが活躍い始めています


垂直になる前の漁船を皆で支えています


少し動き始めた漁船を角材を拾ってきて隙間に入れ落下を防止しています。


船体が動き始めてから、魚のコンテーナーは簡単に移動できました。


コンテナーが動き始めた写真です



昨日の仕事は半分ほど砂にうずもれてしまいました。が皆の元気で一気に昨日レベルには回復いまいた。


中間の休み時間。 上はワイヤーロプやその他のロープ類が引っ張っています。


指揮者といして、今日は頑張っていただいた金原さんです。


昨日の現場はご覧のように砂が覆って今す。 ショックでした



自分のパソコンはインターネットにつながらなくなり困っています。人のものは中々うまくゆきません。 ごめんなさい!皆さん。 俺でも成功でした、

今日は桂島でボートを掘り起こし動かそうと試みた



20211/08/26

桂島で簿とを掘り起こすことにした。 金原さんの希望で。 今日塩竃ベースにいる人数は比較的多く、島に渡ったのは合計で21名。自分も参加。 今までだとビーチの清掃が主であまり大きな器物の撤去は行わなかったが、壊れた漁船の撤去に向かった。 最初の写真では砂にほとんど船底を見せる状態で砂に沈んでいたgy保線は大きさの推測が難しい。以前自分たちもちょっと動かそう方撤去を試みたのだがすぐにギブアップをしたことを思い出した。『あまりに大きすぎ重過ぎた』しかし金原さんはアイディアがあり目的がしっかりしていたので1艘の船の撤去を全員で行った。動かすまでには午後を計画していたようだが大きな魚の生簀が海側にありそこに乗り上げて止まった漁船だ。しかし目的を1つにして全員で砂をどかし始め、船体の外側に穴を掘り始め、午前中の終わりには全体の船底が見えてきて、動かす可能性が沸いてきた。
しかしそこからが厳しく最初は海側に動かそうとしたがこれは常識的に間違っておりそれは魚のブルーの生簀が邪魔をしているためだ。少なくとも逆に山側に動かし動いたら下のコンテナーを取れが海側に展開するのが可能だが。全員で動かそうと気合を入れ動かしたのだが『ウントモスントモ動かない』 午後もこの船底の砂を落とし、ほじくってかの聖を探して行く、しかし時間とともに潮が満ちてきて海水も穴に時々入り始めた。心配だ。心配し始めた。時間が来たので今日はここまで終了yと決めた
最悪は今後のi潮の見9血引きでで変気または漁船がうずまってしまうことを心配している


人数が多いとすぐにこれくらいには掘り起こせるもの


全員さん赤の漁船の掘り出し


近頃の女性も大いに勝康してくれ、男性が出来ない船底にもぐりこみ砂を掻き出し始めた。

  
山口からこられたイエズス会の柴田神父様、短時間だが大いに活躍され




動かそうと試みる


昨日から参加された駄じゃれの凄い多田さんと今朝から参加の出口さんと松永志願者


動かなかったが完全に全体を掘り起こした漁船

2011年8月26日金曜日

ボランティア活動も明るく楽しくやりたいもの




今日のボランティアさんたち。 

2011/08/25
今日は何を書こうか?
昨夜の分かち合いでこんなことを述べた。
ボランティアはわき目も振らず、集中して最初の日を送ったようだ。その晩の反省会で出たこと、自分たちは素人で初めてだが、家庭に送られ、黙々と仕事をしたようだ。だが反省のとき被災者もほとんど話さず、両方暗く沈んだ状態で仕事をしたので全体が湿り、良くなかったと反省が行われた。次の日、派遣された別の家庭では、そこのうちのご主人といろいろ話し、リーダーもジョークを飛ばし楽しく、明るく仕事をしたときは疲れも少なく、仕事が速く終わるのに気が付いたと。
そのような経験から私は、臨機応変に公園などの人とあまり接点の無いところでは明るく冗談を飛ばしても楽しく仕事をすることを勧めたいものだ。今日は運よく東京碑文谷教会の多田さんが参加され、場を盛り上げていただき、皆が楽しく作業が出来たと分かち合いで多くの意見が出た。 良かったようだが・・・・
だがこれも臨機応変にやるべきで被災者のおられる現場でははしゃがず、しかし暗くならないように注意をしながら仕事をすると良いと思う。うるさいとか迷惑をかけない配慮はいつも必要だと思う。 明るく、人にも周りにも配慮しながら明るくボランティアの仕事をすることをお勧めしたい。


近頃中ノ島公園の手入れの協力をしています。 少し肌寒い朝でした。





2011年8月24日水曜日

リーダーとは・・・・?



20110405 気仙沼港に打ち上げられた漁船 現在は海に戻った。

2011/08/24


今日のミーティングを聞いていると、大した失敗でもないのに責任を感じすぎる傾向があるようだ。リーダーとは?
最初に会った気仙沼の大工さん、今でも思い出す。 何か違う、人をひきつけるオーラが出ている。普通の大工さんだが何かが違う。何だろうか? 笑顔がありウィットに富んでいて、人を和ませてくれる。そしててきぱきと仕事をしている、自分でもどんどん仕事をするが、簡単なアドバイスをしてくれる。 小さな小物を持っていて(小さなブラシ)窓(サッシュ)の溝を綺麗に掃いてくれすべりを良くしてくれた。 床下の穴倉まで潜ってヘドロを掻いた。凄い(当時は当然ヘドロはまだどろどろぬかるんでいた。匂いも強烈だった。 よくその家の主人と話もしていた。そして主人の要望を汲み取っていた。 休憩時間も適当にとってくれた。 自分は彼に、何時から働き始めているのですか?とたずねた。 40日目と言われびっくりした。 こんな状況では仕事が無いもの。 何もしないでいるよりはボランティアをやろうと毎日支援センターでボランティアを待っている。 震災から40日目、自分がようやく動き出した日が40日目ごろ。 
今はこの大工さん何をしとられるのだろう?
多分几帳面な方で、てきぱき仕事をしてくれるので、今は多分引っ張りだこだろう。再度会ってみたい人だ。 その日ボランティアをした家の人に聞いたことは、震災後12日、自分の家はサンマの大群に取り巻かれたこと。これにはびっくりしたそうだ。(付近の冷蔵庫から流れ出したサンマだが) 40日後だが、いたるところの側溝に死んだ魚やサンマを見ることが出来た。 もう一つ驚いたことはその家の庭に真っ黒なカジキマグロがクチバシと尻尾を切られ『ゴロン』と横たわっていたのもびっくりした。 マグロの切り身も落ちていた。しかし皆真黒だ。ヘドロのため。
大工さんだから、床はがしはお手の物だが、それでも失敗もした。それは床をはがすときに釘が抜けないこともあった。それは古い家で釘が腐り頭がとれてしまうことであった。しかし気にしていなかった。失敗はつき物と感じていたと思う。 見ながらいろいろ学んだ。
翌日同じ支援センターに行った。当の大工さんやはり来ていた。 今日も一緒にやりませんか?と声をかけた。快くOKしてくれた。最初のボランティア、地元の人ですでに40日もやっているので大いに助かった。 社共が用意してくれる一輪車と工具、それでも満足せず、準備されていた工具置き場に自分で行き、経験からだろう、必要なものをどんどん足して行き、社共の人はタダ呆然と見ているだけ。オーラがあるせいだろうか何も文句も言わず見ているだけ。

次の日も民家のどろ掻き、主人が几帳面な方らしく、自分でかなりやったのだがそれ以上は出来ずボランティアを申し込んだらしい。 このリーダーやはりてきぱきと仕事を進めて行き、冗談も飛ばし、リラックスしてボランティアが出来たことを覚えている。 休み時間は周囲を散策し、状況を見て、住民の方と話したり助言を上げたり、写真も撮った。そんなことには何も言われなかった。 自分でここは津波が入ったところでどこが危ないかどうしたらよいかは自分で考えていた。 あまり上から教えようなどまったく見せなかった。 自分たちのグループはこのリーダーよりすっと上だったと思う。若い高校生も2人いたと記憶している。 ヘドロについても、衛生面の注意もマスクも服装についての注意はまったく何も無かった。 大人だからしっかり見てきているだろうと信頼しているのか無関心か定かではないが片苦しいことはまったく無く、安心して仕事が出来たのも良い経験だった。 釘やガラスや危ないなど全く注意されなかった。しかし何一つ怪我も事故も無く終わることが出来た。 もちろん自己責任で・・・。
そのような経験をすることで、現地の人の声かけや、ニーズを調べる仕方を自分で学んでいたような気がする。その後のボランティアの縁で気仙沼で個人のジムをお手伝いすることが出来たり、陸前高田で最初の仮設住宅を建てた人に出会えたり、その後のボランティアにつながり、現在に至っている。 
しかし毎週あるいは毎日でも変わるボランティアさんを責任もってお預かりするときはもっといろいろ気を配らなければいけない難しさを感じても入る。


日の入った気仙沼は2日間燃え続けた。燃えた漁船の残骸。 漁礁になる運命


気仙沼線の線路もご覧のようにガレキで覆われた。 現在は撤去


川の中はご覧のように津波で引き込まれた残骸が山済み、撤去は遅れている。


民家の庭にはカジキマグロがヘドロまみれで横たわっていた。


ガレキに覆われた気仙沼の漁港付近の被災地。


岸壁にはガレキが密集 なぜ?


川の中にこのようなガレキが散乱しているのをあまり見たことがない。


川にはいたるところ、車の残骸が散乱していた。


電柱の変圧器沢山落下しているが、PCBが漏れ出していなければ良いのだが・

2011年8月23日火曜日

朝鮮人学校のお手伝いを申し出る



この子たちが変わった。 先輩が心配していたが明るく写真を撮ることが出来た。喜んだのはこれら二人の先輩たちだ。ショーンと松永神学生。 ありがとう。

2011/08/23
今日は午後から沢山のボランティアさんが入る予定だ。 久しぶりに柴田神父様が来られる。 同時に内山神父様、藤田神父様が同時に入っておられるのも珍しい。

今日はやることが沢山ある。 2つ目のスノコの完成だが、出来なかった。ビス止めが足りないしニスを塗っていないためだ。
反対に昨日助けてもらったお陰で靴入れの外側の塗装が出来た。問題は午前中、雨が降ったこと。それほど強くは無いが霧雨のようなしとしと降る雨だった。 塗装後に、その他の材料を買うために出かけたとき雨が降り始め、仕事の途中で棚を出した状態で出てしまい、いまさら引き返すにはもったいなく、塗装をしたので雨がしみこまないのを期待し、同時に誰かが気が付いてシートでもかけてくれることにして、カインズホームに来て材料を切り、帰ってきたら期待通りに長澤さんがブルーシートをかけてくださった。ありがたいことだ。ニスの塗りのこしを、完成させ棚板を作り始めたサイズはよさそうだ。したがって、棚板の小口が崩れないように10×10の杉材を張ることにして、不足した釘を求めて浜北地区に行き、キュウリをお裾分けしながら、店で釘を求めた。数は適当につまみ、これ10円でいいよ! びっくりさせられた。

その後下駄箱の棚板に接着剤でプロテクターを張り、釘止めして完成。それからニスを塗り乾かしてはめ込む段取りだ。 最後は台を作りそれに載せてほぼ完成だが明日には終わるだろう。

後一つの懸案は気になっていた朝鮮学校のお手伝いの件で、仙台市八木山に行くことにした。校長先生にお会いしてお手伝いを申し出る腹でカーナビをセットし出かけ1時間ほどで到着できた。 受付で校長先生にお会いできるか聞いたら、すぐに出てきていただいて、昨日の件を聞いたらその後職員の人たちで全部1室に移動し片付けたそうだ。 やはり実を言うと校長先生は全部持って行って欲しかったそうだ。 それではそのしまった物を整理して再度ルーテルに持って行ってもらっては? そのためのお手伝いは出来ますよ。その他の学級のものはどうするのですか? ほとんどは壊すときに処分するのだそうだ。 もってゆく場所が無い。そのための整理をお手伝いしたい。 それなら自分たちも26日には働く予定なので『友好のために』一緒に働いてください。と話が付いた。 最後に『涙が出るほどうれしかった。 と言われた』 良かったのかな?
ボランティアをやっていると、『困っている人がいると、何かお手伝いできるのでは?』と考えるようになった。 

2011年8月22日月曜日

広島学院の生徒ようやくテンション上がる?


今日は2班に別れ、一つは仙台の朝鮮人中学、高等学校の手伝いと別部隊は蒲池さんに連れられて、桂島に入る。前日からの雨で仕事の内容の決定で、リーダーはいつも頭を痛めている。 当日も雨で、多少室内でやれる、引越しのお手伝いに傾いていたが、朝食のとき、その意向を伝え、引越しか、島の仕事を選ぶか、選択を先生に任せたら、即座に『島』といわれ、多分リーダーは困惑しただろう。 しかし、前日から室内で働いてもらったので、先生も迷った末の決断と思う。 
後で日系の二世のショーンに聞いたら、写真を見て彼らの心境を察したようで、今日の写真は前日のものよりテンションを上げて写真を撮ろうとアドバイスしたようだ。 多分彼もこの写真を見ると満足だろう。皆テンションを上げ、笑顔で写真に写ってくれた。 ショーンの心使い、やはり日本人の血を引いていると感心した。 人の顔を読んで次の行動が出来る人、すばらしい! 感謝だ! ありがとう。

自分たちの仕事はその朝鮮人学校の機材の引越しと思い出向いたが様子が少しおかしい。ルーテルの支援部隊が来て、もう一つは仙台カトリック平和・・・。毎週月曜日の長野さんが来られ、自分の班に来ていただいたのでカーナビの必要は無かった。 長野さんが場所をご存知で、仙台市の中にこんな避暑地があるのだと言う雰囲気の山の中、しいて言えば人里から少し引いた中で北朝鮮の同胞の教育をしている雰囲気。 最初の校舎はまるでコンクリートのゴーストタウン。 びっくりして次の建物を探す。隣に広大な敷地にしっかりした建物が点在する、環境と雰囲気は良い。 話に聞くと昔は東北から集めた朝鮮人の師弟を600人ほど教育していたそうだ。現在は1/10ほどに減ったとか。それなら60人ほどか?
今日の仕事はルーテルが主役で、何か支援物資のもらい受けに来たようで、結構あつかましいと感じた。 しっかりパッケージされた新品はもって行き、その他のパッケージがされていない、めんどくさいもの、賞味期限の切れたものは、あつかましくもって行かないと宣言、当の校長先生全部持って行って欲しい雰囲気、ルーテルに付いてきている主婦もてきぱきと綺麗なものだけ集めて行く、カトリックのグループはその仕分けたものの運搬に利用された、感じで、あまりいただけない。相手の気持ちを分からないルーテルの日本人、相手が処分に困っているからもらってやるの雰囲気がありあり。こんな支援団体困ったものだ。 全部売って、お金を支援に回しているとか?
今回お手伝いに全員回さなくて良かった。 しいて言えば、彼ら(朝鮮学校)のその後をのお手伝いしてあげたいくらいだ。校長先生の困惑した顔が忘れられない。 何とかしたいと考える。


2011年8月21日日曜日

塩竃北浜地区夏祭り



2011/08/20
昨日から準備をしていた、塩竃市、北浜地区、ここで夏祭りの支援の話を受けたのは1,2週間前かな? この地区は自分が来てから声をかけ、そしてボランティアを送り込みすでに4ヶ月目かな? かなり地域に住民の方々とお友達になり、支援をしたり、町を綺麗にしたりしていて仲の良い地区だと思う。それが拡大し5地区が一緒に夏祭りを小さくこじんまりと行いたい、ボランティアもお手伝いを頼むと言われ、昨日から宮岡家族のお母さんのリードと神戸の六甲高校グループの支援で子供たちを楽しませるプロジェクトを準備し始め、昨日と今日でほぼ時間通りに仕上がり、先発の女性陣は朝から現場の清掃を担当し、2時からは六甲高校の男子も加わり、準備に入る。その間、自分はベースの3つの課題を昨日から制作し始めた。お陰でスノコはほぼ出来上がり明日再度磨いてニスで塗り固めるかは明日の結果次第だ。 
お祭りの結果は自分は午後6時ごろまで仕事をしていたので、折角自分で準備した花火を見ることが出来なかった。しかし参加は結構盛り上がり、子供たちもかなり参加したのには地元の人をはじめ自分もびっくりした。
大成功だ。地元の役員たちも口々にボランティアのお陰でこんなに盛大に行えたとほめていただき大感激だ。


今回は盆踊りのやぐらは組まなかったが、思った以上に人々が集まり盛大にお祝いをすることができた。


会場は妄想だけを容器にしてろうそくを立て会場に雰囲気をかもし出していた。


老若男女を問わず多くの住民の方と、今日ベースにとまっているボランティアさんがたが参加して盛り上がっていました


夜店も大繁盛で、品物は早々と売り切れてしまったようだ。


焼き鳥屋さんも大忙しで、自分たちもほとんど食べるチャンスはなかった。


アメリカ人のPatも子供が大好きで、輪投げのサポートをしていた


盆踊りも始まり、音量が少ないや、ちょうちんもなく、せっかく借りる予定にしていたものもキャンセルして姉妹残念であったが、かなり盛り上がっていた。

来年はもっと盛大にやるの役員の約束で終わった。 夏祭り

目がやばくほとんど乱視がひどく見えない状態。チェックができずミスはお許しを。