2011年7月30日土曜日

自分のボランティアのしだい

第二回

寂しそうにそのオーナーに聞いた。何もして上げられない自分がいて、時間が来たので、そのまま帰ってしまった。 後ろ髪を引かれる思いで。次回は自分ひとりで来て気ままにお手伝いしたいと考えていた。
気仙沼では厳しい体験もした。 
4月7日 
自分はバスの中で寝ていた。クッションが少し良いのでそれを選んだ。夜中11時半ごろだろうか、地鳴りとともにバスが揺らされ、凄い音とゆれと、そして電気が消え始め、最後は道路の信号が消えた。ショックは強く、これは危ないと感にバスを逃げ出し、隣の皆の泊まっているしっかりした建物に逃げ込んだ。逃げ込むときに確認したことは建物の壁面が落下するのではと感じ上を見たと思う。 ど同時に何かの大きな音がし始めた、あとで分かったことはその老人ホームの自家発電が動き始めた音だった。 その後津波警報が地域の放送で流れ、皆緊張した。真っ暗な気仙沼の町には消防車や警察のバイクが走り出し緊張が募った。
しかし津波は来なかった。記憶だと震度7.4の最高の余震だった。

浜松に帰り、浜松教会で何か出来ないかいろいろ主任司祭と相談したがなかなか動けない、調査を含め、何か出来ないか考えるために許可をもらって再度気仙沼に入ることにした。
今回はまず気仙沼のジムを個人で助けたいとの希望もありボランティアにで、同時に記録を留めるためにしっかり写真を撮影することにした。 ガソリンの供給は心配であったが、頭を使えばそれもクリアー出来ると考えた。 時間帯を考え早朝や深夜の大きくない町の高速のインターで給油することこれが狙いで、その通りに給油は出来た。寝る場所は車の中だ。 毛布を持ち込み寒くない配慮をした。 おかげでその間はまったく問題は無かった。
気仙沼を再度訪ね、そのジムに顔を出した。 小林さん本当にびっくりしてくれ、それからジムのトレーニングマシーンを全部分解し、解体して業者に引き渡した。少しでもお金をもらえる業者を選ぶように助言した。その後業者が入りその金属類を売ることが出来た。たいしたお金ではないだろうが、何か』得られたようだ。
その後2日間ほどジムに貯まったヘドロの回収と室内を清掃し、綺麗にして業者を探し、事務所に貸す計画を聞いた。 次に隣のレストランを綺麗にする努力をし、かなりかたずいた。
その後時間が来てお別れをすることになった。


この写真は桂島に入った6月22日の写真でこれが自分の自宅より大切な海苔の乾燥機で1台2500万円ほどするそうだ。 この機械が5台もやられると、桂島にとってかなりの痛手だ。



今日(7月30日)数日前から本格的な重機がはいり、家屋やガレキを撤去し始めた。例の海苔の乾燥機はなんとブルーの鉄くずと、網を干す網板とフレームに変身して哀れな姿になってしまった。あと1,2ヶ月もするとガレキもほとんど整理されるkぽとだろう。

2011年7月29日金曜日

自分のボランティアの始まり

ボランティアって何だろう。何の報酬も無い、きつい仕事をなぜ人々がするのだろう? 日本にボランティアが動き出したのは新潟沖のソビエトのタンカーが座礁し新潟県の海岸を汚染したのがきっかけで、日本にボランティアが動き出したと記憶している。
そして次は阪神大震災、この時、多くの若者、一般の人々が積極的に出て、阪神の震災からの復興の手助けしたと記憶している。 私はこのとき現役のデザイン教師で、震災のとき何が必要でどんなことをしたら人々を助けられるのだろう?と、卒業研究で5年生に課題をだし調査に行き、卒業研究で作らせたことを覚えている。その間にも小さな災害、海外ではフィリッピンの火山と土石流、そしてインドネシアの地震と津波、ハイチの地震を知ったが結果として何も動くことが出来なかった。
教師としてデザイナーを育て、しっかりした企業に就職させることを第一の目標にしていためだ。 サレジオ会はどうして災害のときに動かないのだろう、ボランティアくらい出せばよいのにと思うだけで、結果何も出来なかったことを悔やんでいる。
今回も誰か動かないかなー、サレジオ会どうして動かない?、
2011年3月11日はすでに退職して支部も変わり浜松に移転していたのので動けるチャンスが出来始めていたようだ。 4月の頭に静岡の富士山グループがボランティアに出る、浜松に参加しないかと情報が入り、
早速浜松代表となり、当日は浜松の代表で車に乗り込む。 浜松、東京、仙台はかなりきつい旅程だ。3泊5日か4日は定かではないが、きつかった。 最初のボランティアの経験は、床はがし、ヘドロ掻き、次の日も同様な仕事だったと記憶している。仙台から気仙沼まで、仙台の小松神父と稲江さんに案内されて移動し南三陸町からその後の歌津や吉本町そして45号線の左右はガレキの山で域を飲む光景だった。なぜこんな天災が起きたのだろう? どうしてこんなガレキが、そしてヘドロの凄さを少しずつ知り始めた。
その気仙沼では2日しか働かなかったが良い体験をした。 一般の人の中に良いリーダーを見つけることが出来た。 運よく次の日もそのリーダーに会うことができご一緒に仕事をさせていただいた。 仕事場以外で声をかけることが出来、周囲につながりを作った。 前のお宅で働く中学生ぐらいの男の子とそしてその妹、叔母らしきひと、ボランティアの存在を教えて手伝いを頼むことを勧めた。 休みのときに覗いたジム、その中で黙々と働く若い一人のオーナー話をすることが出来た。一人にはきつい仕事でボランティアを教え、手伝いを頼むように頼み、電話をしたが、企業は基本的には手伝わない。 それほど個人宅が被害を沢山受けていたためだ。


気仙沼港の最初の新鮮なショックはこんなに大きな船でも、陸上に打ち上げられたことだ。 今だかった見たことの無いシーンだが、その後は陸上の船も珍しくなくなった。


気仙沼の観光桟橋の右は駐車場、そして左側は商店街や住宅地区だが倒壊や瓦礫の山に驚かされた数多くのシーンだ。 カメラはボランティアがメインなので、こんぱくとカメラに絞った。そのときの映像だ。

2011年7月28日木曜日

桂島でカキ殻の土嚢作りをする

今日は桂島に渡り、自分では島の事務所の床を完成させる予定がビスを積み込んでいなかったので、仕事を完成することが出来なかった。残念だった。
リーダー不足で困っていた蒲池さん、しかし暁星高校の先生がしっかり仕事に慣れてくださっていたのでお願いできたのがよかった。

今晩の分かち合いでは、高校生かなり悲観的だったが、そんなものではなく、高校生としてしっかり勤めを果たしてくれ、人間的にもかなり変わっていただけたと感じている。期待以上の成果だったと感じる。今日のカキ殻の山は前回のとき以上に増えて、最初はこの大きさどうしようと皆が感じたようだ。 しかし私自身、それほど大きな山とは感じなかった。結果的には大きな山の1/5ほどは無くしたのかな?とかんじている。前から見ると横までは征服できなかったが、横から見るとかなり前進し、土嚢袋の数では5,600個は出来たと思う。 ご苦労さん。
前回カキ殻づめの仕事で痛めた筋肉はいまだに痛いが、また今日仕事をしてしまった。 痛さはさほど変わってはいないが、助かることはそれほど疲れを感じていないのがよい。

残念だが明日は20人を大きく切りそうだ。今後はコンスタントに20人を越すと本部に言われているのだが、そうして? 心配だ。


これは2時15分ごろ作業終了で、完成したカキ殻の土嚢をバックに全員で(実は3名道具を洗いに水道まで移動したために全員撮影とはならなかった。


カキ殻の山をバックに暁星高校の生徒さんと松本先生。 この山の征服は出来なかったが、達成感は味わえてだろう。 左後ろは横浜から来られた安井さん。 満面の笑みを!と教えられた。 皆さんありがとう。進歩していますよ。 ご心配なく。

カキ殻の土嚢作りの、理由は被災地はいたるところに地盤沈下があり、浦戸諸島ではあまり土が無いためにカキガラの土嚢で冠水を防ぐことを目的としている。

2011年7月26日火曜日

塩竃の今朝のボランティアさん方 高校の2校が参加しています

昨晩女子大生とシスターそれにボランティアのリーダー蒲池さんと男性では私しかおらず、『分かち合い』は女性の非力さの反省が多かったようですが、
今日は高校の2校が参加してくれたので、20名を超えるおおきなグループになったようです。昨日よりははっきり、先生が先週より進んだと発表されました。大きな被災地に入ると、自分が分からなくなり、どれくらい仕事をしたのだろうと反省するようです。小さいと感じた自分の力でも。400kmある震災地でもそれは見ずに、自分が入っている被災地の中で見ると20人でよくこれだけやれたと感じたほうがよいようです。 いろいろな被災地だ小さなボランティアグループが確かに働いてそれを継続していることによって、すこしずつでも被災地は復興の動きを加速していると、感じてほしい。
四月の半ばごろに入って七ヶ浜でもほとんどガレキは見えなくなり、今残されているところはぬかるんだ、あるいは水の引かない田んぼの中だと思います。同時に現在は被災した家屋の撤去、取り壊しが盛んに行われ、寂しい光景が増え始めているのも現状です。 
自分のうちの隣が今日なくなった(取り壊された。そんな中で頑張っている黄色い家の仲買人鈴木商店?)どのようなお気持ちだろう。今日もシャッターが下りていた。少し心配だ。


昨日参加した暁星高校の体育系と今朝一番で入った横浜サレジオ高校、そして女性の大学生とシスター和解力で働いてくれました。 あまり先をあわてないで欲しい。

2011年7月25日月曜日

今日蒲池さん大変だったでしょう。

男性はリーダーの蒲池さんと、毎週月曜日に来られる仙台の上野さんの2人と、まったく素人の女子大生5人にシスターそして仙台の日帰りのボランティアさん。 反省の中でも、女子大生は自分たちの非力さを感じたようだ。蒲池さんに聞かなかったが、同じ思いだろう。
しかし明日は東京からの高校生が5人入り、男性が増えるので仕事も順調に進むと思う。しかしリーダーはこんなときもあるので、リラックスして構え、出来ないときはそれなりに妥協する必要があると感じている。
近頃の自分は大工が多く、物作りをしています。
そのために材料の仕入れ、製作、結構時間がかかります。 桂島もやらなければいけない大工仕事がありまだ終わっていないのが気がかりです。
明日も桂島に入る予定だが自分は今迷っているところ。『行くべきかよすべきか?』


これは塩竃ベースの長靴の整理のために作ったもので、3つ目です。後一つ作れば皆これに掛けることが出来整理が出来るようになります。


これも2つ目で、島の海水浴場の砂浜を綺麗にしようと作ったフルイで少し重いのがけってだろう。網の目を少し小さくしてはといわれるがこの次の小さな目の金網を見つけ切れなかったが原因だ。 実際に使ってみて改良の必要があるのかもしれない。

2011年7月24日日曜日

塩竃、寂しい今夜です。 ボランティア送って!

塩竃に入り無休でそろそろ3ヶ月、体の節々が痛く、少し疲れ気味かな?痛みがとれず、1週間前のカキ殻ずめの仕事がたたり、自分は仕事が早いのがとりえで、その反動が痛みに出たようで、次々とある仕事、特に木工の仕事も腰の痛い原因であるようだ。
でも今日で頑丈な、ビーチクリーン作戦に使う砂を綺麗にするフルイが2つ完成した。しゃしんはまだ撮らなかったがいずれお見せしたい。あ

今日の塩竃は忙しく、桂島と塩竃で働く外国人のグループは公園周りを昨日に続き草取り、ヘドロだしと大いに働いてもらい、国道側はかなり綺麗になった。 桂島のグループは高校生が行き何かをしたようだが、定かではない。 フルイに関しては網の目が大きすぎないかといわれたが、まだ実際に見ていないので真実は分からない。自分で実際に見て判断したいものだ。

夜の塩竃ベースは実に寂しい。お昼に外国人グループが帰り、仕事後、4時半には六甲グループが7名帰り、そこにシスター引率の大学生グループが6名入り総計10名しかおらず、男性は私と蒲池さんだけの寂しい日です。 あすもあさは日帰りの2人で総計10名で桂島に入る予定、夜は高校生が10名ほど入るので、人数も20名ほどかな?


さいびしいです!

これは細菌の気仙沼の様子です、被害も甚大で、ガレキの整理は大変遅れているようです。

2011年7月23日土曜日

ビーチを綺麗にするフルイを製作中

近々、桂島の海水浴場を綺麗にするで、いろいろ聞き、前に参加したとき最後の砂を綺麗にするには。ガラスや破片を取り除く必要ありで、以前から考えている、あまり労力を使わずに、砂を綺麗にするにはやはり砂浜の砂を、フルイに掛ける必要があると感じている。最初は人の力で、小さなふるいを作りそれに砂を入れながらやさぶって砂と異物を分別することを考えていたが、もっと効率よくするには大きなフルイを作りそれに砂をシャベルで投げ込み、勢いで分別する方法が良いと見たので1600mm×800mmのサイズと2×4の材料で作成した。網の曲がり、伸ばし、安全性を考え、同時に仙台のカインズホームの丸鋸が故障で、板材を狭くすることが出来ずそのまま張ってしまった。これらが全体の重さを出してしまう原因だ。 工事現場の鉄パイプもそろえ明日はテストに行く予定が、急遽変更されて、自分でのテストは出来なくなった。
網は鉄網とステンレス網の2つを作る予定だが残り一つのステンレスは明日以降になりそうだ。 ステンレス網の曲げはどうしようかと悩んでいたが鉄網とそれほど変わらずに曲げることができたので、仕事がスムーズに運びそうだ。
同時に浜の清掃のコツを昨日の『分かち合い』で話したので多分内陸部に近い砂浜をターゲットにしてもらえることを期待している。

今日の塩竃ベースの仕事は国道45号線でマリンゲートにかり行く2つ目の信号の角から雑草取りとヘドロの残っている土の除去を行った。 公園の外側に当たる部分の道路よりで、かなり仕事ははかどった。日本人だけなら10名位しかいなかったが、埼玉教区のいろいろな教会の外国人グループの助けで11名ほどが入ってくれ、仕事がはかどったのは大変良かった。外国人に感謝するとともに、少ない高校生だが大変貴重な戦力になってくれている。 ありがたいことだ。明日で六甲高校は帰られるが、その後の参加に再度期待したい。


今朝の塩竃ベースのボランティアさんたちです。日本人は今日は大変少なく、しかし埼玉教区の外国人のボタンティあの方が参加してくださり、大変助かりました。 ありがとう。東北の人に代わって俺を言いたいです。 また明日よろしくお願いいたします。

2011年7月22日金曜日

塩竃ベース 今日の仕事

7月22日現在神戸の六甲高校が入っている。人数は7名で先生が2人そして生徒は5人今日も少ない。夏休みに入っているのにこれでは先が思いやられる。 折角の若い高校生がうまく入っていない。15人がまずかった。何の利点も無い、やはり本部の計画の甘さが気になる。改善できるだろうか心配だ。
今日は長靴整理と乾燥のための器具を改善した。以前は1本のビスで留まっていたものを後ろに壁を作り前から2本のネジで止めることで飛躍的に強度を高めた。ビス止めをじかにすると木が割れて駄目だったので、ドリルで穴を軽くあけ、それを基準にネジ止めをしたら割れることなく出来上がった。まだ2列分の棒がひつようのようだ。
次の計画は、桂島でボランティアをやり浜の清掃を行ったようだが、計画がまずいせいか、台風後新たにゴミが打ちあがることは以前から判明していたが、それなら波の上がる部分は清掃せずに乾燥した陸地に近い部分を徹底して清掃するとあまりが歴や汚れは上がらないと考える。しかし物を吹き飛ばすくらいの台風なら仕方が無いが。
今後の計画ではまず網と木材を獲得して、近々でフルイを製作しようと考えている大きさは1500×820mm位の箱を作りそれに網を張り、傾斜させて設置し、そこにスコップで砂を投げ込むとゴミが残り、砂は落ちる、古いが皆さんが使う方法で砂浜の清掃が出来るものを作りたい。明日はその部品を集め政策にかかりたい。2×4の材料だと少し重いが、それより少し小さめの材料が見つからない。
昨日から肌寒いほど気温が下がり、今日も快適に仕事をすることが出来た。明日は30度くらいの暑さになると予報されている。


これは南三陸町の少し奥の小さな半島 泊浜の現状だ。右後ろは少し大きな建物で民宿のような感じだ。3月11日の被災の日がまだそのままに残っているようだ。

2011年7月21日木曜日

南三陸町 泊浜の現状

3月11日の震災がそのままに残っている。
取り残された感が否めない。 マスコミに取り上げられた南三陸町や歌津、有名なせいか、陸地の都市に近いためか動きが機敏だ。多くの重機やダンプカーが入っているためにかなりガレキは無く、不要な家屋は次々と壊され、見晴らしのよい場所に変化した。
しかし泊浜は震災当時の面影がそのままに残っていた。しかし浜に出る角の家屋からダンプに家財道具が投げ込まれていた。 家人がすでにあきらめたのだろうか?推測が付くが・・・・ 少し動き出し、集落の中の家が数日前と比べると倒壊していた。以前、見たときは危なそうな傾いた家の中に家人が物を取りに入ったようだ。『危ないな!』と感じていたが声はかけなかった。 しかし数日後行ったときはすでにつぶれていた。壊したのか、自然倒壊かは定かでない。
隣の家も黄色いショベルが入り壊し初めていた。
それでも遅遅とではあるがうごいていた。
今日も教会関係者を案内し、石巻から女川に案内した。人的支援を得られるかと思い案内をしている。 その後の話で450kg送った支援のお米がとどこっていたと報告をうけ、今後直接に支援物資を送りたいと声をかけられた。 新鮮なきゅうりと梅干が送られた。あまっているので、周囲に配りたちと考えている。被災し以前ボランティアした家やお店を時々サポートしている。

29日は以前ボランティアに来られた別府の林さんの奥さんが来られるので、再度尾崎まで出かける予定だ。支援物資は新鮮な野菜を計画している。


こなガレキの散乱した場所はあまり無いだろう。 泊浜前の人家の密集した場所で、こんなところは少ないだろう。 支援を必要としている。

2011年7月20日水曜日

今日は台風の影響で島に行かず、昨日の休憩所を進ませる

昨日来られた横浜サレジオ高等学校の先生のご協力で、休憩所が出来上がった。 今後少し改善したい。、

昨日カインズホームで資材を集めていたので、仕事をすることが出来た。 台風の影響で、安全第一に、島には渡らずに、本土、塩竃での社共からの仕事は無かった、少々困ったが、先日の継続と、周囲の道路の草取りで急場をしのぐ。 折角横浜から高校生が来ているので、仕事が無いのは困ったことで、明日の仕事は島に渡る計画でいる。

今日の仕事は昨日花壇を作り、今日は休憩所の完成をめざす。 さすが北海道で家を作った経験は、材料選定のミスをすることなく、順調に進行。昨日から注文されていた水準器を探しにカインズホームに9時半の開店を目指して行く。求められた品物は見つけることが出来、それでも数回ホームセンターに出かけ、必要なものを調達した。
躯体が持ち上がったのは11時ごろで12時ごろにはかなり完成に近く、棟上は皆の協力で立ち上げ残り2本の足を入れて、2×4の金具でジョイントし、立ち上げたときは、上部の重さに耐えかね、金具が曲がるアクシデントがあった。しかし鎹を入れたので躯体の強度は増した。問題は開口部が小さく、今後デザインを変更し、強度を上げる必要がありそうだ。
その後4本足も付いて、少しのトラブルはあったが、それらしく仕上がった。 午後は屋根に『よしず』をかぶせ、夏の太陽の暑さを守る工夫をする。隙間があるので雨はしのげないので、透明の波板を半分に張り、雨が少ししのげる工夫をした。

今後の改良は長いベンチを作り、テーブルも考えるか、現在思案中だ。

花壇の花もまめに摘み取り本体を強くし、花を多く開かせる努力をしたい。


中央の赤シャツが先生で、その生徒が多くを手伝った。 知らないボランティアを使うより、使いやすかったと思う。中心に鎹をいれ強度を出す工夫をされた。 できれば大きな開口部を考えたい。


右側の枕木部分が昨日完成した花壇で、昨晩の雨で植えた植物が元気になってよかった。 今後はまめに、花壇に行き草取り、花摘み等を行う必要がある。

2011年7月19日火曜日

ボランティア今日の仕事1

今日はボランティアが少ないので、それでも寒風沢島と塩竃に別れ活動した。前の日に頼まれた個人使用の駐車場を公共の休憩場所に変えたく、仕事を頼まれたようだ。 金原さんがリーダーで、昨晩声をかけられ、明日朝、その休憩場を作るので手伝って欲しいと頼まれた。
最初は枕木が欲しくそれをさがし、ネットで見つけ、仕入れに行く。 以前から気にしていた仙台の港地方がありそこの被害をまったく見る機会が無かった。今日偶然に枕木を所有する会社がその被災地に倉庫をもっていて、仙台の海岸に平行に走ることで、海岸地帯の被害を比較的しっかり見ることが出来た。『凄い!』の一言。こんなにやられていたのだ。 何か相馬と石巻をあわせたイメージで、防風林の松が、くしの歯を落としたように遠景で見ることが出来、それが道路沿いあるいはもっと奥に流されていたのが印象的で、同時に家屋が沢山倒壊されたり、津波に突き破られて、無残な姿を呈していた。
どうして早く見に行かなかったのだろう? 早く行動すべきだったと悔やまれる。

その後枕木を見つけたが相場が結構良い値段で、びっくりさせられた。1束が5000円ほどと誤った理解で倉庫に行ったら、1本が3000円くらいだった。おかげで8本しか仕入れることが出来なかった。
それで花壇を作り、土を買って、木屑をまき、ベンチを作り、ニスを塗り時間内におよそ考えた仕事は完成し、オーナーさんにも喜んでもらえた。

今日の夕方横浜サレジオ高校から先生と生徒5人計6人が参加した。 直後七ヶ浜につれて行き震災を見てもらった。 その後明日の仕事の話が出て、やることが見つからなかったので、明日は島に行けず(台風の影響で)塩竃で今日の続機をすることにした。 横浜の先生が木工は得意と申し出られたので、大きな日陰を作ることに決定。 その後急いでカインズホームに材料を買いに出かけ、仕入れることが出来た。(午後8時が閉館で)

今日の結果の写真はブログに載せます。


仕事をしたボランティアの人とオーナーそして横浜の飛び込みボランティアさん。
明日はもっと大掛かりな日よけが期待できそうだ。

2011年7月18日月曜日

起こるべきことがおきてしまった

昨日再び横浜東京に行った。これは横浜サレジオの校長先生を先日ご案内したときに近々父親の集まりがあるので『東日本大震災について話してほしい』といわれ快諾していた。先週再確認の電話があって決定し、土曜日の午後塩竃を離れ、東京に向かった。 運転中は少し眠気もあったが、無事横浜に着き、問題は国道246にのってしまったのが渋滞に巻き込まれる原因で、着いたのは4時45分ごろだった。
講演は無事終了し、いつものDVDを使って津波の強さ、被災地と現在そして問題等、最後はボランティアについて話せた。人数はそれほど多くは無かったが、それでも60名ほどいらしたかな?
翌日は日曜日で世田谷の修道院でシスター方に同じお話をすることが出来た。学校があるので、何か伝わることが出来れば結果は寝て待つに限る。 良いことは院長様がいずれ訪れたいと興味を示されたことだ。
今回初めてボランティアで震災で働くため、高速道路無料パスを申請し、使ってみた。申請は社共にボランティア証明を出してもらい、市役所の災害課で発給してもらった。 高速道路では高速道路券を取り、降りるところで、申請書を示して券を渡すとチェックして簡単にパスしてもらえた。片道8800円ほどかかるので大変助かった。

夏の運転は日中にやるべきではないと確信した。 早めに起きだし、目的地に着くには真夜中に運転することだ。込まない上に冷房代が安くつくこと、現地での仕事が大いに増えることの利点が多い。ただ問題は睡魔に襲われるので慎重に運転すべきだ。

起こるべきことがまたおきてしまった。 新しい4本のタイヤを使っているのに、今日また釘を踏んでパンクさせてしまった。ついていない。これで3回目だ。
今朝早く気仙沼に着き写真を撮影するために現場に入った。今日は海の日でお休みだから作業車は少なく、問題は少なかった。気になっていたのは小さなガレキは普段以上に路上に散乱していた。掃除があまり出来ていなかった。気にしながら運転したいたのだが・・・・・
眠くなり松島過ぎて木陰の下で仮眠を取った。 その後起きだし、車を動かした。直ちに変な音と振動があり『やってしまった!』と直感した。 すぐスペアを出し、タイヤを取替え、ガソリンスタンドに直行。30分ほどで修理は完了。 しかし新しいタイヤの2本に釘穴を作ってしまったことは実に不運だ。


このような被災した家屋が沢山気仙沼の被災地に残っていることだが、人が住める気配はまったく無い。いずれ解体され更地になるのを待っているようだ。 地盤沈下で冠水する部分が増えているようだ。 今日はそれほど匂いで気になることは無かった。が 汚い水が流れているのは相変わらず問題だ。

2011年7月16日土曜日

暑いです。今日も33度とか、東北仙台もあまり関係なく暑く、ボランティアさん冷房の無いところで苦戦していますが、怪我や病気をすることなく、順調に進んでいます。 
今日は浦戸諸島の寒風島に出ています。先日まで25人ほどいたのに、まるで台風一過10名ほどに減っていますが、明日土曜日は増えそうです。 これが数日継続してくれると助かるのですが。 次第に大学生、高校生が入ってくれると4,5日の滞在になるのかな?期待しているしだいです。
このうだるような中でボランティアをしてくださる方、どのような暑さ対策をしたらよいものか?と考えています。
今日七ヶ浜にシスターを案内して行きました。驚いたことに、七ヶ浜の役場から降りてきて新仙台火力発電所前の家屋、佐藤宅、佐藤旅館が壊され撤去されていました。昨日まで立っていましたが、壊す決断と行政の判断で実施されたと推測します。 その先の漁港の小屋に漁船がしっかり載っていたのも撤去されたし、七ヶ浜の松林付近のお宅の玄関にスバルが横向きで刺さっていたお宅もなくなり、このような家住宅がどんどん減って行きます。


近頃なくなった小屋の上の漁船。これが三角屋根の傾斜の上に建てたのは後一台の小型の船が隙間に入りこめたのが理由。 すでになくなってしまった。


七ヶ浜の海水浴場の近く交差点の一角に残って珍しいシーンだが津波の空けた12日、びっくりしたことだろう。 見てみると自分の家や玄関に見知らぬ侵入者が沢山押し入ったシーンだ。


5月の始めころ七ヶ浜の最後の漁港のガソリンスタンドがこのように残っていたのが、危険なために早めに解体され現在は名残すら残っていない。スタンド跡

2011年7月14日木曜日

石巻の変化

一昨日から横浜サレジオ高校の志願者と生徒合計10名が入っていましたが、今日、木曜日で10名が帰り今夜はスタッフ5名と、ボランティアさんが5名の10名です。少ないです。しかし2人は外食で夜には戻り、明日は7名増えて14名で、寒風沢に入ります。 私も入りたいのですが、高速道路の申請を取りに行くため、明日はだめです。土曜日から月曜日に東京で講演の予定です。
今日は高校生を石巻から女川に連れて行く予定が、被災地があまりひどいので、元気をなくしている気配でしたので少し心配していましたら、うやはり神父様からも途中でやめたいといわれ、女川はよしました。 経験の無い、見たことのない高校生にはやはりきついようでした。今後は考え直す必要がありそうだ。

石巻では土台も取って地面にする工事も始まっていたし、いよいよ石巻港の対岸の防波堤に乗っているオイルタンクの解体が始まっていた。
そして数週間前から、石巻に入る川沿いの無名墓地に警察関係の仮事務所が出来、何をしているかは定かではないが、墓地での撮影は厳しくなり、カメラ持っていると警察官がしっかり飛んできます。し理由を聞かれます。

2011年7月12日火曜日

浦戸諸島 桂島の現在

今日は桂島に入った。 
暑い一日だったが、どれくらいの温度だろうか?32度くらいかな?定かではない。 10人ほどのグループで島に入る。 自分は、まだ完成を見ていない事務所の未完成部分の計測とその材料を探すための想像と完成をどのようにするかを考えた。 残りの土間部分を一段低くして変化をつける。 まず段差の側面にランバーコアを張りそこに心材を渡して、床を張る予定にしたい。 ボランティアから帰ってすぐにカインズホームに出向き、必要な材料を仕入れる。 明日島に入り、完成できれば最後はPタイルを張ることですべてが完成の予定だ。
今日から横浜サレジオの志願生が5人入り、三島神父様がその保護者としてきておられるのは、心強い。明日には鳥越神父様も参加するので一度に3人の神父さんの滞在は異例だ。
今日は事務所の設計後、カキの殻で土嚢作りの手伝いをする。仕事をしながら自分はいかに効率よく仕事をするかを考えているのが分かる。 女性で8分目入った土嚢をP缶から引き上げるのは非効率で力の使いすぎが気になった。そこでP缶を横にして引きずり出すのが効率的で力を使わない方法だと思うので、提案して使わせた。実際に使ってどうだろうか?定かではないが疲れが少ないと感じている。 土嚢につめるときも、カキ殻を土嚢につめるときの工夫が必要で、カキの山をそのまま下から崩してつめるより、上から大雑把に崩して下が柔らかになることをもくろむ。こうすることでスコップで掬う量が違ってくるのに気がつく。大きく掬えるのでP缶を満たすのに4掬いで済み、多分一番土嚢袋を作ったと思う。このような工夫がいつも必要だと感じている。
効率を考えると、やはり軽自動車が借りられたのが良かった。炎天下で仕事をするには絶対に効率と工夫と、無駄な体力を使わない配慮が必要だと感じる。
今日のカキガラの作業場は木陰があったのでブルーシートを上に張ることは必要でなく、下に敷いて昼食のとき使うことが出来た。


今日は横浜サレジオ高校のサレジオ会志願生が神父様と5人参加し、大所帯の一日だ。いつもこれくらいのボランティアがいることを望んでいる。


今日はカキ殻で土嚢を作ったグループでボタンティア歴7回目の目黒の多田さんとアメリカから参加のスティーヴンスさん宮岡兄妹他多彩だ。 明日も桂島の予定だ。

2011年7月11日月曜日

南三陸町 尾崎に行く 117番地

先日林さんと、榎本神父様を乗せて行ったところの義理のご両親に差し入れをした。 あいにくだがご夫婦はお留守で、お婆さんはいらっしゃったが、ご自分で、分からないといわれ、玄関先においてきてしまった。 かなりの量があったので、避難所にもって行くのか林さんの奥さんから電話がきたが、すべて義理のご両親にプレゼントをしtあ。あまりにそまつな生活をされていたので涙がでてしまった。
その後その半島、尾崎と泊浜、泊漁港周辺を歩いてチェックしてみた。漁師さんに聞いたら、160戸ほどある中で60数軒破壊されたが運が良かったといわれ、少し救われた。
泊漁港周辺のダメージがひどく、歩いてチェックし写真を撮った。

津波の破壊はすさまじくほとんど60軒は壊滅的で、同時に2011年3月11日のそのままが残っていた。火を燃やしておられた漁師さんに尋ねると、いろいろ話してくれた。方言だが、かなり分かるし理解できた。 グーグルアースの平面でも見て欲しい。集落はこんなに破壊されてしまった。



小さな漁村だがこれだけダメージを受けています。 このお話をした漁師さんの家も全壊に近く自分の倉庫にすると説明いただいた。 上の赤い屋根が3軒写っている、中心の赤い屋根の家だそうだ。 ご本人は現在避難所生活で、時間つぶしにガレキや港のごみを焼いているとか話してくださった。

2011年7月10日日曜日

久しぶりに大きな余震(M7.1)に見舞われた。作業中を心配した


この写真は七ヶ浜の港で有名な小屋の上に取り残された漁船だが、今はすでに撤去されている。

塩竃ベースで日曜日のミサが行われ、メキシコの神父様が日曜日のごミサを捧げてくださった。
日本語は流暢でどこの方かな?と聞き耳を欹てた。スペイン系の人かな?と感じたがメキシコは考えなかった。
お話の最中に地震が来て、かなり大きく揺れた。 長澤さんが地震だと言い、お話が少し中断された。しかし皆さん慣れているので、それほど心配することなくミサは進行した。 ただし数分後、市役所の放送が始まり『津波警報が出ています。海岸に近ずかないでくださいと警報が出て、呼びかけが繰り返された。』 ミサ中だが、ボランティアに出している関係からグループが心配で、何かの手落ちが気になった。 電話がつながらないこと、リーダーと連絡がすぐにつながらないこと。 安全の確認が出来ないこと。 今後はこの辺りの徹底が求められる。
安全確認のマニュアルを作る必要がある。 リーダーとは連絡が直ちに取れる習慣を作っておくこと。 作業場に入ったらその前にリーダーは安全確認をすること。 実行をすること。 ここでは万が一どこに逃げるか、決めておくこと。高台はあるのか? しっかりしたビルがあるのか、当日の仕事場に入る前にリーダー、サブリーダーとちょっと回り確認すること。 安全な場所に避難し、ベースに電話を入れ指示を仰ぐこと。携帯のラジオがあると便利。(NHKにあわせラジオを流しておくこと。) 津波警報が出ると避難すること。

ミサ後、七ヶ浜を案内する予定だったが、注意報が解除するまで動かなかったことは正解だ。もし動いて事故に巻き込まれると取り返しがつかないから。 しかし12時ごろ津波警報は解除されたので、安心して七ヶ浜を案内出来た。

七ヶ浜での出来事、最初に仙台新火力発電所の見える高台に上った。驚いたことに船が走った形跡が無いのに直線的な波が(高さ4,50cm?)くらいの波が岸に向かっていた。カメラを持参していなかったのが残念だ。自分の推測だがあれも津波だったと思う。 そして岸に達し、白い波が何回か飛び散った。
津波警報が解除されていたが・・・・・ 普通の波とちょっと違った。普通の波は少なくとも切れ目があるのにその波は切れ目無く同じくらいのパイプライン型の波であった。

藤本さんのグループの友達、四元さんを一緒に見学でつれて行き、l最後は彼の希望で極楽湯でおろして帰った。 夕食は無く、外食で和食を紹介し行く予定にしていたが、他のグループがラーメンを食べたいとなり、それなら極楽湯のそばにラーメン店があるので、挨拶の出来なかった四元さんをびっくりさせようと、そこに行くことにした。『タケチャン』が彼を迎えに行き、びっくりさせ、つれてきてくれた。沢山いたので本当にびっくりしたようだが、大変喜んでくれた。 皆と別れた後はどーッと寂しさが増すらしい。良く聞く言葉だ。 四元さん何を考えて東京に帰っただろう。 大変ありがとう!

2011年7月9日土曜日

女川ビルの転倒



女川のビル転倒はいくつだろう? これもその一つで、設計者は転倒するなど何も考えは無かっただろう。 なぜ転倒した? 
推測だがあまり考えることなく、住宅設計の延長のような土台の作り方、パイロンを打ち込むことなく、容易に石を敷き詰めその上にコンクリートを流し込んだ、安易な設計のように見える。

聖書にあるように砂の上に家を作るな、しっかりした家は岩の上に建てなさいといわれている通りだ。 多分女川港も港に近く、ひょっとしたら埋め立てて整地したのかも、定かではないが、砂の多い土地に建てたビルは強い力が加わることにより転倒を起こしたようだ。今回は随所に建築家の手抜き、そして建築業者の『だまし、いい加減さが目立つ』紙のように薄い建築材料でよく日本の家を建てたものだ、責任を撮って欲しい。 こんないい加減な業者に仕事を任すべきではない。 震災の家屋をしっかり見て悪い業者には仕事を任せるべきではない。と感じている。

アメリカの建築家、フランク・ロイド・ライトは日本の帝国ホテルを設計する際に日本には地震が多く、関東ローム層はやわらかくその対策として杭を沢山打ち込んでその上に帝国ホテルの本体を乗せたようだ。そして日本は地震が多いので瓦屋根は絶対にだめで、その対抗処置として銅版で屋根を葺くことにした(これは日本の伝統的な寺社建築に使われていて年限を重ねることで、緑青が発生し美しい色に変化して行くことを狙った)。同時に建築材は軽くてやわらかい、日本産の大谷石を採用したようだ。
このような地震を知りその対策を随所に盛り込んだ設計は1923年の関東大震災に耐え、多くの家屋が壊滅的なダメージを受けたのだが、ライトの設計した帝国ホテルは震災に耐え見事生き延びたのが有名だ。
建築設計者よ、しっかり地震や津波から学び、まじめな設計をして欲しいものだ。 同時に設計者には住みやすい、安心して生活の出来る新しい日本を設計して欲しいものだ。それが建築家に与えられた今後の国作りを任せたいものだ。
住みやすい立派な町を作ってくれ! 頼むよ。

2011年7月8日金曜日

南三陸町 歌津から尾崎神社に行く


今日は、南三陸町内に、久しぶりに入る。 
何が変わっているのだろうか? ガレキは少なくなり見晴らしがよくなっているのには気がつく。 それを感じながら、歌津町に向かう。 見覚えのある入り江の角の展望レストランだろうか? 赤い鉄骨がまだコンクリートボードの間から見え隠れする。 海面の上に鉄道があり陸地側は鉄路が地面の落ち、海上の高架部は多数落下し、橋脚しか残っていない哀れな姿を見せている。そこを通過し林さんが目指す、ローソンを目指し、交差点を右折する。 そこから歌津尾崎の半島の先端に向かってドライブする。 景色は被災しているところは同じ破壊のシーンであまり変わらない。 小さないろいろな入り江が破壊され、家屋はガレキのままに残っているのが目立つ。何箇所も同じような被災地を通過しながら半島の先端尾崎にたどり着き、林さんの義理の母の実家に到着する。 11時ごろ着いただろうか。
林さんの幼いころの家族の話、慕っていたお姉様が三陸町で亡くなられ、そのショックを隠すことは出来ず、時折涙を流されたり、写真を撮影するのに反応され、その他親族の方々が数人お亡くなりになっていらっしゃるので、私自身、そちらのほうに案内するのはためらい、
偶然以前林さんの知っておられる、榎本神父様もこちらに来られ、石巻方面を訪問するからと声をかけたら林さん南三陸地方に行くことをOKを出され、その後南三陸地方の実家に連絡され、朝から訪問することに決定したわけです。

最初ご家族のの印象はやはり元気をなくされた感じがし、話の合間合間にボーットされる場面があり、ショックは大きいなと感じた次第です。 隣室にそのお写真が仏壇にあり、神父様が同席してくださっていたのでお祈りもささげていただいた。

このような震災の中でもおもてなしの心は変わらず、お昼をご馳走させてくださった。 いろいろ食生活もお尋ねし、心では何かご援助できないか探りをいれ、お食事を出され皆さんご一緒に食事をしたのだが、やはり大変貧しい生活を強いられているのを実感させていただいた。 何を支援したらよいのかも知ることが出来、訪問の成果は上がったと思う。

2011年7月7日木曜日

七ヶ浜で最初に仲良くなった魚の仲買さん

多分, 自分の記憶では5月初旬だろう七が浜にきだして3回目だろうか、港の小屋の上に小型のヨットがバランスよく鎮座していたので写真をよく撮ったものだ。 そんな中でどなたか港の小屋のほうから歩いてこられた。どちらが先か定かではないが声をかけあい、少しお話をしたと記憶している。
震災の当日自分は津波を逃れるために仕事場のビルに逃げたこと。そこビルの前の自宅が津波に飲まれ、沈んでいったこと。それまで明るく笑って話してこられ、しかし実家が目の前で消えていったときには『さすが涙が出た』と笑い飛ばされた。凄い人だと感じた。 
自分は今までこの海からすべてもらってきたので『家が無くなったが何もうらんではいない』『しかし自然には絶対に負けないぞ!』とこの廃墟の中でただ一人だけ働いておられたのが印象に残った。 何か支援してあげないとと強く感じたのを覚えている。 その後このご家庭が何を望まれているかは伺えず、自分で想像して何かまとめて持っていったことを覚えている。その後七が浜に来ると注意してみたり、挨拶したり、お話に行ったり、支援物資を差し入れたりの関係が続いている。一時期この店が閉まり人影が見えず心配したこともあったが、その後姿を見ると何か安心し、6月1日がこの海の解禁でそれを目指してがんばるんだと息子さんとがんばる姿に力をもらい。先日久しぶりに姿を見たので話しによった。相手も『心配されていたようで、久しぶりね、もう帰ったのかと考えておられたらしい。』うれしいことだ。

話していくうちにここはハエと蚊が多く困っている
それならと昨日支援の物資を少し買い、今まで考えて買っていた『蚊取り線香』も持ってゆこう、で今日午前中に届けた。お店は壊れてはいるが、ご子息と働いていた成果が出ていた。大型の冷蔵庫も入り水槽がいくつも用意され海水が入っていた。見せてもらうとなんと生きた『ヒラメやカレイ』『その他の生きた魚が泳いでいた』見事立ち直って、仕事を再開しておられた。凄いの一言に尽きる。
奥さんもその中で机を持ち込み忙しそうに筆記したり、多分電話での注文を受けておられるのだろうと推測できた。この家族は皆明るくすばらしい。 最初に言われたとき、写真撮るならこのベランダから撮ったらいいと招待された。そのときは遠慮したが。 今日奥さんに一番喜んでもらったのはやはり『蚊取り線香』だった。 大きいパッケージをいくつか買って車に入れておいたのが重宝した。
最後にお礼をいただいた『これ、もって行きな!』と『大きく見事なカレー』を一匹いただいた感激だ!『壁、直らないね!』うん!『お上が最優先だからいつになるか分からない。』

今からもこの家族の復興を見守りたいものだ。 まだ名前は聞いていないが。

カレーは今夜ボランティアの方々のおなかの中にうまく納まった。 菅原さんが大きな魚を見事裁いていただいて。助かりました。本当にありがとう。

2011年7月6日水曜日

浦戸諸島の桂島担当 中井さんに少しお話できた。 
桂島の民宿の活用とボランティアの受け入れを実施すると両方が活性化し進展が見られると思うが、今年の夏に実行できるかが問題だ。中井さんにも桂島の民宿を活用することの申し出もあるそうだし、今後開くボランティアセンターの上にも宿泊が出来ると話しておられた。 同時に民宿があることは食事を作る能力のある島民がいること、ボランティアを呼び込んで食事の準備をすることも出来る可能性があること。 後は浦戸の社共が実行することが出来るか、一途に彼らの決定いかんにかかわっている。
その後の話は浦戸のボランティアが幕張メッセで行われる復興支援のイベントに誘われており、その出品物をどうするか、宮城の物産を売るためにどうするかで、昨日は入った武田笹かまぼこさんを紹介し、近くの甘納豆屋さんの紹介と、白松が最中の店舗に強引にお願いし本社と交渉することには成功したが、期日が押し迫っているのがネックでその交渉の行方が心配だ。
その後カリタスジャパンを助けているシスターズリレーの新役員が視察に来られ、今後をどうするか、支援のあり方等について意見の交換をされた。 それなりに自分の意見を言うことは出来たし、今後どのように推移するかは定かではないが息の長い支援の必要なこと、ボランティアをバックにニーズの発掘と地域住民または被災者と仲良くする工夫をして欲しいこと等を申し上げた。その後、変わりつつある七ヶ浜を案内し、以前働かれたシスターはその変化を察知されたようだ。
ボランティアのために駐車場を無料で貸していただける三元木材店駐車場を綺麗に草取りをはじめ、着々と進行して行く様子が伺えた。


さすがにボランティア炎天下の中で4,5時間働くと帰りの船上はご覧のようにお疲れの様子がありありと見える。潮風に吹かれて1時間の船旅は癒してもらえる貴重なときだ。

昨日多賀城付近は雹が降った

仙台地方は昨夜から怪しい雲行きで、稲光、雷と激しい雨も軒先をたたいていく。今朝は少し雨が降ったが仕事に支障なく時間が過ぎてゆく。昨日の疲れか少しからだの動きが緩慢で・・・ 午後は頼まれていた精米と買い物でキッチンのための買い物をする。そのあたりから、雲行きが怪しくなり、真っ黒い雲が多賀城辺りを覆い始めた。突然、いやな音がし始め屋根や地面にビー玉クラスの雹が落ち始め同時に強烈な雨が降り始めた。 丁度精米中で何の影響も受けることなく、過ぎ去るのを待っていた。 その後雨も上がり現在は雲は多いが、青空が沢山見え梅雨の終わりか?と期待はするが果たしていつ雨が終わるのだろう。

塩竃ベースのカリタスジャパンは今日は少なく小さなグループで活動した。明日は『寒風沢』に入るとか? しかし修道女連盟の役員が来るのでその接待をしなければいけないようでもし渡るのならあきらめる必要ありだ。 一番綺麗にしやすい島だが、一番遅れてしまい申し訳なく感じている。


2011年7月4日月曜日

塩竃の武田笹かもぼこ店の駐車場

今日の仕事は今まで何回かお手伝いをした『笹かまぼこ』店の駐車場の仕上げを狙って入ったのだが、かなり進行しても完成は出来なかった。
私も一昨日に継ぎ、今日は体力でのお手伝いに入った。 最初に入って仕事を見て何が必要なのかを調べその後道具を探しに行き、効率よく仕事がはかどることを考えている。 震災から3ヶ月が経つのにまだヘドロはあり仕事はそのまま残っているのが塩竃だ。
仙台のセンターで軽自動車を借りているのはこんなところでしっかり役立っている。実際には浦戸諸島の『寒風沢』で活躍するはずだがまだ島には渡っていないのが現状だ。
今日の総勢は15人かな、平日この人数だと感謝だ。 おかげで思った以上にはかどり、その中にはシスター方が4人も参加してその働き振りにも感心したり、感謝したり。驚いています。
私はまだそこそこに体力もあるようで。軽自動車に土嚢袋を乗せ、集積場まで運転し、そこにおろすのが役目で、2台までは何とかこなしたが3台目、4台目にはさすがお手伝いを一人頼みおろしてもらいました(自分は何個おろしたのだろう?200個ぐらいかな?)。 自分でもそこそこにお手伝いできたかな?と感じています。その他草取り、その後の整地、おまけに帰ってからは4人で高齢者の住宅のお部屋の引っ越しのお手伝い、すべて充実した1日のようでした。 少し疲れ気味で寝たいのかな? 明日は力仕事はなし。

先日昔自分が高専で教えた同じ、高専だが、国立高専の女性が来られ、化学を専攻し、5年を終了し現在専攻科で勉強中の子が来られたので、ヘドロの研究を託した。実際にどのようになるかはかの女次第だが、昨日は、柴田神父様と彼女を案内して石巻、女川とお見せした。 石巻ではまだ残された家庭の床下にはこんなにひどいヘドロが横たわっているのです。
特に浦屋敷町、元屋敷町の残っている家屋の被害もひどくこのような写真の称すが想像できる。


実際にはこのようなヘドロが残された各家庭に入っているのが実情だ。こんなために家庭の支援が必要なのだがまだまだボランティアが足りないのが現状だ。

2011年7月1日金曜日

今日は桂島でのボランティア
久しぶりに天気に恵まれ桂島でボランティアをすることになった。 前の日にカインズホームで必要な材料を集め船に乗せ、作業工具とともに島に持ち込む。塩竃のマリンゲートから出て1時間弱で桂島に着く、海水は普段より少し濁っているのかな?と感じる。これはやはり津波の影響か、海水が攪拌されるだけで濁りが出るようで、同時に匂いもヘドロを感じさせるものがある。しかし学者によると地震、津波の翌年は豊漁になるらしい。それは人間が作った堆積物を陸地に返球したおかげで、海底の地形が綺麗になったためのようだ。
最初は自分ひとりで事務所の床を作る予定だったがボランティアの補助が入り、簡単に出来るはずだったのが、材料不足で完成は見られなかった。 その不足分はすでに本土に帰り、オナジカインズホームで材料を切って準備は整った。 桂島での仕事は完了できなかったが、ついで桂島の海水浴場に行き浜の清掃の手伝いをすることにした。
浜はかなり大きく、近頃は地元の人々は海水浴に桂島に行く人が増えていると聞いた。 出来れば今年にでも清掃が完了できればと考えるが、今年はボランティのこの人数では無理だろうし、海水の濁りでは海水浴も不可能だろう。
そんな中で、ボランティアを10数人導入して清掃にかかる。 今日はシスターも始めて参加してもらい、ボランティアの体験をしてもらった。が当日はあまりにも暑く、海岸の仕事はきつかったようで、軽い熱中症気味の症状がでて、心配した。しかし少し休んでいただいたおかげで大事には至らず、無事お仕事を終えてお帰りになった。
仕事は順調で大きな浜の清掃はまだ仕事半ばで終え、今後の追加仕事にゆだねることになっている。近々桂島に戻り浜の清掃と事務所の床の完成が待たれている。